自分が、自分自身のためだけに存在しているとしたら、あまりにも虚しい
自分の存在が、自分以外の誰かの役に立っていたり、喜びになっているとしたら、それはとても嬉しいコトだ
でも、一体自分の何が、自分以外の誰かのためになっているのか…
自分の持っている機能?
だとしたら、その機能が失われれば、自分は誰かを喜ばせられない
自分の持っている魅力?
だとしたら、魅力が失われれば、自分は誰かを喜ばせられない
自分がソコにいるというコト?
きっとそう…
それがたぶん、正解に一番近いのだろう
では、自分が存在しているコトをかつて一番喜んでくれた誰かから、ある日、自分の存在を疎まれるようになってしまったら…?
あるいは、自分の存在は実は偽りで、その偽りの自分が存在しているコトを、誰かが喜んでくれているのだとしたら…?
それは、茫漠たる無明だ
偽りの無い現在の自分という存在を、心から喜んでくれる誰かがいない…それはすなわち虚無だ
同じ虚無なら、むしろ「誰かのための自分」などという定義づけをやめてしまえば良いのではないか
自分のための自分…かつての、オトコだった頃のワタシのスタイル
ソコに戻れば、少しは心のざわつきを抑えられるのだろうか…
偽りのない現在の自分の存在を喜んでくれる誰かを、また探すべきなのだろうか…
オンナとして愛される喜びを知ってしまった
誰かに、世界で一番に大切にしてもらえるコトの喜びを知ってしまった
誰かの心の中に自分の居場所があると、とても安心できるというコトを、身体で知ってしまった
幸せの中にあったあの時、ワタシはどうゆう心構えでいるべきだったのか
生まれてこのかた、一度たりとも満たされるコトのなかった心の空虚を、余すところなく完全に満たしてくださったあの方と、ワタシはどう向き合うべきだったのか
本当のワタシを知って、それでもあの方がワタシの存在を愛おしんでくださったとしたら、ワタシはオカマに堕ちたりしなかったのだろうか
本当の自分というモノを、ちゃんと心底から愛せるようになれたのだろうか
この世に生まれでたコトを、心から感謝できたのだろうか
父に、母に、人々に、この世の中というモノに、心から感謝できたのだろうか
もしかしたら、そう思えたのかもしれないと思う
もう終わってしまったコトだけれども、もしかしたら、そう思えたのではないかと思う
あの方は、ワタシにとっての希望だった
希望は、しゃぼん玉のように美しく鮮やかで、ふわふわと風に乗って手の届かない空高くに舞い上がり、そうしてあまりにもあっけなく、はじけて消えてしまった
しゃぼん玉がはじけて消えた空を見上げ、呆けたようにココにもう3年、ただ立ち尽くしている
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