楳図センセイの作品に関しては、様々な場所で多くの方々がその魅力について語ってくださっています
フリークを自称できるほどでもないワタシごときが、いまさら賢しらに何かをココで記しても、うすっぺらなレビューみたいになっちゃうだけでしょう
原初体験的なコトをサラっと綴ると、ワタシの最初の楳図作品は「鬼姫」になるんだと思います
戦国の時代、美しくも残虐非道な振る舞いで恐れられる姫と、その姫と瓜二つであった心優しい村娘
その娘が姫の影として馴致されていくうち、不意の表情にすら「鬼姫」としての相貌を帯びさせてしまうに至る過程の描写
熱く焼けた嫗の面を鬼姫に被せて入牢させ、影と光が入れ替わる描写
戦の炎に陥落間近となった城から、村娘だったころ恋仲だった若者を脱出させ、自らは鬼姫と恐れられる形相のまま焼け落ちていく天守の望楼に屹立し、煉獄の炎に消えていく終幕
魑魅魍魎も妖しげな怪人も出てこないケド、このおどろおどろしたセッティングと哀切なストーリー、そしてヒトの姿とその内実が少しずつ変質してゆく様…
これらは読後数十年という時間を経てもなお、ワタシの脳の記憶野に焼き付けられてしまったかの如くに現在も鮮明で、かつ、恐怖や好奇や嗜虐というリビドーやフェティシズムにも直結する感覚をも覚醒させました
高度経済成長期にお子さまだった人々は、こういった楳図作品群に何がしか心の闇奥あたりの感覚を刺激されたり覚醒させられているんじゃないでしょうか
多くの方々が指摘なさっていらっしゃる様に、楳図作品の底流には「美醜への固執」とか「容貌の美醜と精神の美醜とがアンバランスに変質してゆく過程」といった、メタモルフォーゼに対する好奇と恐怖と倒錯といったモノが脈打っていると言えるのでしょう
手塚センセイが、ご自身を昆虫の変態する様に魅せられたヒトだ定義されていらっしゃった覚えがありますケド、とすれば、楳図センセイはヒトの容貌と精神の変態する様に魅せられたヒト…と、定義づけられるのかもしれないですね
そんなセンセイが作詩作曲し、なおかつご自身で歌っていらっしゃる名曲をご紹介します(ん? 「グワシ!まことちゃん」とか「ビチグソ・ロック」とかじゃないですょ)
<楳図かずお:ヘビ少女>
この曲、むかしまことちゃんが、ゴミ捨て場にあるポリバケツの上にのっかって「♪~ひどなどずぎになっだがだー~♪」って、のたうつみたいになりながら歌ってた、あの曲です(って言って分かるヒト、どれくらいいるんだろw)
当時ワタシは小学3年生くらいじゃなかったかな
実際に曲を耳にするより先に、まことちゃんの方を見てしまっていたせいもあって、聴いた時にはネタ的な歌だとしか思わなかったものでした
でもいま、あらためて聴いてみて思うのです
この歌はワタシのための歌なんだと…
ためしに「ヒト」を「オトコのヒト」に置き換え、「へび少女」を「オカマ」に置き換えてみてください
親や家族から絶縁され、多くの人々との関係を失い、職も失い、道を歩けば嗤われ後ろ指を差される、中途半端なオカマ
そうなるコトなど百も承知の上で、それでもオカマに堕ちざるを得ないほどに、あの方は愛おしい存在だった
オトコにも戻れず、かと言ってオンナになるコトも決して叶わないこの呪わしい身は、つまるところ、蛇にも人間にもなりきれずどちらにも属するコトのできない忌まれた異形のモノたちと、なんら変わらぬ等質の存在なのではないか…
楳図センセイは、そんな呪われた存在に対して、こう歌ってくれるのです
♪~愛をたずねて行くのかよ 身体だけは大事にしろよ 辛けりゃいつでも帰って来いよ~♪
今回の動画は、娘道成寺などでも知られる安珍・清姫伝説にまつわる画像を主にチョイスして編集しました
調べれば調べるほどに、清姫というヒトの情念が、鬼気と狂気をはらんで蛇へと身を変えてゆかざるを得なかったのが痛々しく思われました
愛しいヒトを想い続けた末に蛇と化さねばならぬほどの狂気を帯びてしまう…それはワタシにも充分に共感できる感覚だったから…
呪われた身は、事実として受け入れるしかありません
その結果として不遇な体験をするコトも覚悟しなければなりません
その道で生きていかねばならないとしたら、それはきっと孤独な歩みです
だけど絶望せずに「愛をたずねて行く」のです
そんなモノに対して、手渡せる言葉はやっぱりこうゆう言葉にならざるを得ないのでしょう
呪われた身の上のヒトに対して、「現実に」手向けるコトができる精一杯の優しさ
この歌は、呪われた身の上の人々に向けて過去から届けられた、せめてもの手向けの言葉なのだと思うのです
優しい歌なのだと思うのです
↑2022年追加のおまけw 2007年だから当時71歳! 元気だなぁ
コメント
やったぜ、オークションでサンデーコミック版「鬼姫」げと~
30年以上前に一回読んだだけなのに、ディティールまでちゃんと覚えてたょ
そして、あの時よりも深く泣いた
日本のマンガというものが、既に70年代初頭において極めて高い文学性を有していたコトの証左として、この作品はもっと多くの人々に記憶されて良いんじゃなかろうか…
楳図の天才性もさるコトながら、決して楳図が独り屹立していたワケではないってトコが、日本のサブカルチャーのスゴイとこだなぁ
彼は、見晴かす峻険な連山の、その峰々のひとつであるってトコが、この国の懐の深さなんじゃないかしら
と同時に、そういった広大な裾野の上に成立していたハズの文化が、80年代以降急速に痩せいってしまっている事実も看過できない事実です
表現の手法や見せ方という点において、いまだ進化を続けているコトは認めますが、表現されたモノの、その更に先にある裾野の部分が非常に小さく狭く浅いモノに感じないでしょうか
それは、表現者が根源的に抱えている「怨念の量」が絶対的に不足しているからではないか…そんな風に思えたりします
良きにつけ悪しきにつけ、表現者側は飽食の時代に生きているが故の浮薄化なのかなぁ