10日ほど前の記事に、こんなの↓があった
性同一性障害:8歳児童、小2の秋から「女の子」 埼玉の公立小、性切り替え容認
更に関連記事がコレ(2023/01/31時点でリンク切れのため関連記事をココに再リンクします)
「ん~、どうなんだろう…」と、しばし考え込んでしまった
まだ8才なんだょなぁ
「できるだけ早めに、自分の在りようを周囲にカムアウトして、できるだけ早めに自分のコトを周囲に諦めてもらい、できるだけ早めに新たな自己構築にゼロから取りかかるべきだ」…というのが、このコトに関する基本的なワタシの態度だ
が、8才のコドモにも、この態度で向き合うべきなんだろうか…と、躊躇してしまう
自分のその当時を振り返れば、確かに既に明らかになよなよしていて、養育してくれていた叔母の部屋でお化粧のマネゴトをかなり恒常的にしていたし、ごっこ遊びの時もオナノコの役をやるのがスキだった
まだまだ自分というのをよく解かっていなかったというせいもあっただろうし、未だ自我とか自己像とかを確立できていないが故に、性の分化も未発達だったというのもあっただろう
「おちんちんがついているのはオトコと分類される生物なのだ」という知識もちゃんと理解してはいたが、そのコトは自分とは関わりのない世界のコトだと思っていた
「オナノコみたい」だとか「てっきりオナノコだと思いました」などとヒトサマから言われるコトは、幼い頃のワタシにとって最高の賛辞でしかなかったし(否、いまでもそうだゎw)、ごく当たり前のコトの様に「そのうちオトナになれば自分はオナノコになるんだろう」と、何の根拠もなく勝手にそう思っていた(蛙かょっww)
「今はオトコだけど、そのうちオナノコになれる」という、オトナに対して理解させるのも説明するのも不能な成長システムを自分のアタマの中に妄想し、その妄想があるおかげで、第二次性徴が始まるまではさほどの不安も苦悩も抱かぬまま、はなはだ無自覚に過ぎ行く日々を送った
第二次性徴が始まってからは、「日々刻々と変態してゆく己のありさまを当然のコトとして受け入れねばならない」という理性と、「醜く変貌してゆく自己の姿を決して飲み下すワケにはいかない」というないものねだりとの相克に飲み込まれた
その結果として一度は現実を受け入れたワタシは、オナノコを諦める代わりに「オトコとは如何にあらねばならないか」という、またしても妙な妄想に取り憑かれ、ずいぶんと長い間オトコ道を突き進んでしまったが…
その後も、いくばくかの自己定義みたいなモノを造っては壊し壊しては造って、現在ワタシは、ヒトさまから「オカマ」と定義付けられる場所に自分の身を置いている(今後はどうなるコトやら…w)
ヒトによって生育する環境も違えば、自己認識の深度も異なるから、同じ刺激がどのヒトにも同じ痛覚で認識されるとは限らない
少なくとも8才の頃のワタシは確かにオナノコにはなりたかったが、スカートが履けないコトに絶望するコトはなかったし、おトイレで困ったなどという大人めいた不便も経験したコトはなかった(今は逆にめんどくさいね おトイレで今までバレたことなんかないケド、もしバレて騒がれれば「元・高校教諭 女装して女子トイレに入りあえなく御用!」なんて記事になっちゃう だから今でもちゃんとメンズに入るのょ^^;)
コドモというのは「オトコでもオンナでもない『コドモ』という生物なのだ」とは思う
しかし、そうは言ってもオナノコという生物は「小さいうちから可愛くあるコトを周囲から望まれ、可愛く振舞うコトをごく自然なコトとして育つ」が故に、ごく幼いうちからオンナとしての成分を色濃く含有して成長する
対してオトコというのは、放っておいても自然に生まれてくるというものではなくて、「訓練の結果オトコになる」という点が、オナノコの成立と大きく異なっているように思う
ごく一般的に、オトコという生物に求められる美点というのは、はなはだ不自然で不自由で非合理的な事々ばかりだ
「悲しくても泣いてはいけない」だの、「己の信念のためには命すら張れなければならない」だのと、やたらと克己的な生活信条を常に掲げ、ソコに向けて這ってでも前進を続けていないと、オトコという生物はオトコ足り得ない(眠っている時でさえ泳いでいないと死んでしまうサメみたいだw)
そういうめんどくさい「~せねばならない」とか「~してはならない」とかゆうのに則って生きていないと、オトコという生物は「人間で、ちんぽこがついてる方」というだけの「オス」でしかなくなってしまうのだ
街中をうろついているチャラチャラしたあんちゃんどもが、結局のところ「人間のオス」でしかないのは、そうゆう突っ張るべきなにものをも持たずに、ただ生きているだけだから
突っ張るべきモノを持っていないオトコなど、生殖のために世に生じた余剰の「オス」以外の何者でもなく、であるならばそうゆうオス連中は、「これでも一応オトコでござい」などと、いっちょまえのオトコの振りなどして肩肘を張ったりせず、とっとと「オカマ」にでもなった方が、世の中的には早く平和が訪れるに違いないと秘かに確信する
この8才のコが、果たしてどの程度「自分がオトコであるコトに苦しみ、オトコ的であろうと努力した結果それが果たせず、オナノコとして生きて行くコトに活路を求めた」のかというコトを、ワタシは知らない
苦しまずに済むのなら、そんなめんどくさい手続きなど経ない方がむしろ幸福に近づきやすいのかもしれない
が、「自分は一体何者であるか」というコトを突き詰めて考える以前に路線変更するコトは、果たしてどんな結果を生じるのだろう
現行法の下では、ホルモン療法も行えないまま否応なく第二次性徴を迎えねばならず、結果として日増しに変態してゆく自分の姿に少なからず苦しむコトだろう
オナノコとして暮らしながらの声変わりは、きっと随分とツラかろう
場合によっては、ドコからどう見てもオトコにしか見えないような肉体に変貌してしまうかもしれない
いくら心はオナノコなのだと主張しようと、肉体的には決してそうゆう事実は存在しないのであって(インターセックスならGIDとは認定されない)、オナノコの中で生活するコトそれ自体が苦痛を生む原因となるかもしれない
それよりもむしろ、不定形な時期には不定形のままでいさせてやって、後々いくらでも自由に方向転換できるような環境を準備をしておいてやった方が、むしろ現段階では良かったのではないだろうか
コドモの自己像が確定する以前にとっとと路線変更をしてやるコトよりも、そのコが今後たとえどちらに足場を置いて生活しようとも、とりあえず何とか生きていける素地を整えておいてやるコトの方が、コドモの本当の意味での幸福のために周囲のオトナがとりうる態度なのではないか… などと思ったりする
せめて、このコが歩むその先で、この世に生まれ生きていくコトの幸福を体感できる時がくるよう、我が事の如くに希求する
あるいはもしかしたら、ワタシはこのコに嫉妬しているだけなのかもしれないが…
コメント
おひさ!!!
ふむぅ~~~。難しい問題だね。
心は女性でも、身体的肉体的には男性に
カテゴライズされてしまうというその
ギャップを8歳の子が今後受け止められ
るのか?といった貴女の指摘は的を得て
いるし・・・・
リンク先の記事を拝見するに、大学の教授?
の進言もあってそうなったみたいだけど、
かくゆっているのも(男性)教授なんでしょ?
性同一障害の方の気持ちについては、男性
(にカテゴライズされている私)には、
その深層までは分からないけど・・・
でも、確かにいえることは、
こうした問題が当たり前のように受け入れ
られる環境がいち早く整って、
なんのためらいもなく、「カミングアウト」
(この表現、スキじゃないけど・・・)
できるような社会が実現するといいと
思う。
なんか、変なレスだな・・・・w
そういえば・・・
貴女には伝えていなかったかしら??
実は、私の通う会社の後輩(すでに退社済み)に
いわゆる貴女と同じオカマと称される後輩が
いた。
で・・・・
私は彼(いや彼女と称すべきか)との会話
も楽しみ、一緒に飲みに行き、
彼女の友人(同じくオカマさん)たちとも
会話をし、彼女たちの生き方(考え方)の
一部を(ほんの少しだけ)理解した経験が
ある(したつもりかも知れないケド)。
翻って、こうゆう経験をしたことがある人が
どれだけいるのか???
と思えば、言わずもがなごく少数であることは
いうまでもなかろう・・・と思う。
「免疫」という表現はスキではないが、
仮にこの言葉の使用を許してもらうとすれば、
男性・女性にカテゴライズされる社会の
なかに、オカマ(オナベも含む)が自然に
入り込めるような状況があれば、
貴女が言う
「このコが歩むその先で、この世に生まれ
生きていくコトの幸福を体感できる時がく
る」のかも知れない。
受け入れる度量があるか。これに尽きるのかな?
オカマ
↑
失礼。
その意味は・・・
①改行が見苦しい点
②最後の「オカマ」は意味なし。
コメント作成中、改行作業や文章
の加筆訂正を行なっている際に
残ってしまったものです。
スマソ・・・・(泣く)
行なっていた際に残った
>千葉っぷサマ
ご無沙汰いたしておりました
そして、おかえりなさいです
この助言をした塚田教授ってセンセに毎月あたしも診療を受けてるんだケド、毎回行く度に新顔のMtFさんやFtMさんがたくさん順番を待ってたりします
世の中にこんなにMtFとかFtMのヒトが潜在していたんだと、いつも驚かされます
でも思い返せば確かに、ワタシがお勤めしていたトコにも、必ず2クラスに一人くらいはそうゆうニオイのするコがいたものでした
鈍いオカマの嗅覚ですら、ニオイを感知できるコがそれくらいいるんですから、あたしみたいにヒタ隠しに隠して生きてるヒトなんてもっといっぱいいてもおかしくはないんですょね
比較的オモテに出しやすいのは、どっちかって言うとやっぱりFtMのコじゃないかな
オナノコってゆうのは「ボーイッシュな娘」ってゆう自己表現でゴマかせる部分もあるから、そうゆうのに紛れて、結構公然とオナノコ同士で睦みあってたりする微笑ましい(w)姿を目にしたりしたものです
MtFの場合はなかなかそうもいかないっぽいですねぇ
まずルックスの点でかなりシビアなハードルがあります
よほど資質に恵まれていないと、オナノコとして周囲が扱ってくれません
更にごく一般的に、「おてんばなオナノコ」は許容範囲だが「なよなよしたオトコのコ」は蔑むべき者という社会的な通念があります
社会を覆っているこういった美意識と、完全に逆行するコトを敢行できる覚悟がなければ表面には出せません
ルックスと覚悟というハードルをクリアした上で、ようやくオナノコ「の様に」振舞うお膳立てができるワケですケド、仮にもオトコが「オナノコの様に振舞う」って、やっぱりオカマから見てもキモチ悪かったりする素振りなワケです
コレ↓くらいの資質があれば、周囲も「まぁ、アレじゃしゃあねぇか…」って納得もするんでしょうケド…w
http://lucifersystem.blog111.fc2.com/
そんなワケで、結構高いハードルがこのコには待っていると思うんです
現行法の下では18歳まではホルモン療法を望めません(美容整形外科とかモグリのトコは別 あとは海外から錠剤を輸入するというテはありますケド)から、明らかに第二次性徴を迎えた後の処置になるワケで、そうなると「女子制服に身を包んだ異様にごついヒゲ面のオナノコが、おっさんみたいに渋い声でマックではしゃいでいる」という図を目にするコトも覚悟しなければならないのです
自分に実害の及ばない範囲でハタ目から見ている分には、「まぁ、世の中いろいろだから、そうゆうのがあっても良いんじゃないのかな」などと無責任に言えるワケですケド、これが身内であったり友人であったり、あるいは当人であったりするコトを想像した時、おおかたのヒトは「それは困るなぁ…」と眉をひそめて言うに決まっているのです
コレを敢えて冒さねばならないのが、彼を取り巻くオトナたちの考えた方策です
ちょっと、「どうなんだろうなぁ…」って思っちゃうでしょう?
ごく一般的には、コドモが「オナノコとして生きて行きたい」と訴えてきたとしたら、「馬鹿なコトを言ってないで、ビシッと男らしくせんかぃ」などと言ってハネつけるのでしょうか
ワタシは決して親には成り得ない未熟者だけれども、もし8才のオトコのコの親で、その子が「ボク、オナノコが良い」と言えばきっと止め立てはしないでしょう
でも、それ以上に「まだ決めなくても良いんだょ」と繰り返し伝えようとすると思います
「オナノコの道を行くコトの危うさ・哀しさ」みたいなモノも繰り返し伝えようとするでしょう
「オトコ道を行くコトの虚しさ」みたいなモノも繰り返し伝えようとするでしょう
「どっちかに決めなきゃならない状況になるまでは保留にしたままで、ソレを考える時間にしても良いんじゃないかな」と伝えようとするでしょう
「決心ってゆうのをするためには、決心に至るための様々な根拠が必要なハズで、その根拠をちゃんと考え覚悟し、根拠を尋ねられればキチンとそれを説明できるようになった時…その時が良いと思うよ」と言うでしょう
それでもそんなお為ごかしな台詞なんか耳に入らないほど、当人は焦燥感に駆られちゃうモノなんですケドね…w
それくらい、第二次性徴期の変貌ってゆうのは、GIDに悩む当人にとっては受け入れがたいモノなのだと思います
路線変更するにしても、もうちょい待たせても良かったんじゃないでしょうかねぇと、思ったワケです
コメント入れ終わってYahooのニュースを見てみればこんなの↓がアガってましたょ
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100226-00000082-mai-soci
コレは逆の例ですケド、このコ、オトコとしてやっていきたいハズなのに、トイレは職員
女子用で更衣室は別の部屋っておかしくね?
「オトコだったらみんなと一緒に裸のお付き合いからだろ?」って、言うのは酷だと分かってて、それでも言ったぞ
オトコとして生きるってのは、そうゆうコトも覚悟しなきゃならないってコト
8才のコとはまた違った意味での覚悟が要求されるワケで、その覚悟もなくわがままこいてると、あんまりステキな大人にはなれないような気がします
もちょっとがんばれ、若き悩めるヒトビト
全ての人が自分の個性を正直に出して生きていける社会って、素晴らしいとは思う。「お互いがお互いの違いを個性として認め合う社会」は理想だと思う。
しかし、スローガンは立派でも、現状を見れば、進歩は遅々としている。上滑りの理論だけが一人歩きして、そのお題目を唱えている限り、違っている人を差別している自分を見据えなくても済んでしまう、そう言う社会なんですよ、今の日本は!
そんな環境で、八歳の子にそういう選択をさせる親の真意はどこにあるんだろう。人格のほとんどを隠して生きていくのはつらいだろうけれど、ある程度押さえて生きていくという選択は、社会的動物としては仕方がないと思う。
個人個人が持つそれぞれの違いのどの部分までをお互いが許容するかってことが「合意」で、そこには妥協も含まれると思う。
その、今ある合意以上に自分を表現しようとすると、今の社会は覚悟が必要になってくる。社会的な制裁や差別や排除を受ける。
八歳の子どもにそれを周りの大人が押しつけて良いのかな。
>ビバ☆メヒコさま
久しぶりに旧友三人揃いましたねw
長州のお坊さんはメール弾いちゃってるのかなぁ
メアド変更のお知らせ後も、相変わらず音信不通であります
書き方が悪くてうまく伝えられなかったのかな、周囲のオトナたちはこの状況を「押し付けた」ワケではない様です
あくまでも「コドモが苦痛を感じないように」という配慮からやった…と、記事ではなってます
でもソコがどうにもハナにつくんです
「あたしだってホントはそうして欲しかったさ」という嫉妬がないとは言いません
だけどそれ以上に、周囲のオトナ達の「親切すぎる程に先回りしたお膳立て」ってゆうのが、ホントにこのコのためになっているんだろうか…って、シニカルな気分でこのハナシに向き合っちゃうんです
記事によれば「幼稚園の段階から体が男であることへの違和感があり、小学校入学後は男児用の水着を着たり立って小便することへの苦痛を激しく訴え、不眠がちになった」とのコト
我が身に照らして考えた時、「そんな幼児のうちから身体の違和感など覚えるものだろうか…」と、はなはだ訝しみます
「こうゆう服が着たい」とか「こうゆう髪型にしたい」とかはあたしにもあったケド、「なんでこうゆう身体なんだろう」ってゆう苦痛は、この段階のコドモに自然に発生するものなんでしょうか
↓へつづく…
このコの名前が「男女どちらにも用いられる名前だ」などという点なども、疑い出せばなにやら胡散臭くて、まぁ、そうゆうコトはまずないとは思うケド「親側がそうゆう方向付けでコドモを生み、恣意的に教育したのではないか」などと疑ってみたくもなります
また仮にそうでなかったとしても、「性同一性障害」というモノに対する一種の神経症的な不安が親の側に素地としてあって、「本来はさほどの違和感ではなかったハズの事柄」を過敏に解釈し、自らが造りだしたイメージの底なし沼に本人・親そろって見事にハマってしまったのではないかしら…などという憶測も、あながちハズレてはいない様な気がします
昨今のメディアの影響もあるのでしょうケド、まずは自己確立があって、その後に不一致感という話が出てこなければどうにもウソっぽく聞こえてしまうのは、ワタシが昭和なオカマだからなんでしょうかねぇ…
近江の地熱男とも音沙汰ないですなぁ。
私が言いたかったのは、八歳の子どもに、そこで人生の選択をさせてしまうって事は、周囲の大人が押しつけてるのと同義ではないかなってことです。その子がこれから受けるであろう様々なカミングアウトすることによって生じる迫害(肯定してる訳じゃないことは、過去のカキコを読んでくれたらわかるでしょ?)に対して、どう責任を取るのかって事が問題。
まだ八歳で、どういう大人になっていくかなんて誰にも分からない。迫害に耐えきれず、極端な話、15歳で自殺でもしたら、それは彼にとって幸せな人生と言えるのかな。
その辺りがよく分からない。環境を整えず、バンザイ突撃させているだけの様に映るのはうがった見方かな?
>ビバ☆メヒコさま
近江の伸太郎は、メアド分かんなくてお知らせできてません(>_<) 摂津の小鳥は、メアド変えたみたいでメールが返ってきちゃいました まぁ、こうゆう泣き言やうわ言ばっかりのブログをお知らせするのも、気はひけるんですケド…w たしかにおっしゃる通り、そうゆう意味では「押し付け」のように感じられる記事内容ですよね コドモが単に駄々こねてるのを、鵜呑みにして、その駄々に迎合しているだけの様にも見えるし… オナノコ的であるコトを志向する資質が、現実とぶつかった時に、初めて「苦しみ」を覚えるものです 性別不詳なこの年頃のコドモが、もし本当にその「苦しみ」を自覚しているとしたら、 1:親や周囲がかなり作為的に性差による身体的相違を強調して教えた 2:男女の在り方に対してかなり偏執的なこだわりがあって、コドモに「オトコであるコト」をかなり強く要求した 3:でなければ「オトコであるコトを強く意識させるような言動」をコドモに施した というようなコトでもしない限り、8才程度で自覚するハズがないと思うんです ↓へつづく
つまり、元々オナノコっぽいコが、何かを信じちゃってる親の下なんかに生まれたりしちゃうと、ごく早い時期から「苦しみ」に苛まれちゃうんじゃないかな
何も知らず、何も抑制がかからなければ、コドモは自分が在りたいように在ろうとするハズですから
いくつか可能性を列挙してみましたケド、煎じ詰めてしまうと、「このコは第二次性徴も迎えていなければ自己確立もしていないハズの幼さだ」ってゆうトコにひっかかっちゃうのかな
現実との間で懊悩し格闘した結果としてソコに至る道を、あえて早めに摘んでお膳立てしてしまったコトの贖罪は、コトここにまで至ってしまっている以上、このコをドコに出しても恥ずかしくないようなオナノコとして、きちんと育てきってあげるくらいしかないような気がします
このコの途路のその先に、せめて幸いの多からんコトを、我がコトのように祈ります
隣の市で痛ましい事件が起こって、どう整理して良いかわからん状態です。五歳の子を餓死させた件。私のルーツの半分は、その市にあるので、他人事とはなおさら思えない。
あの両親を「鬼」と決めつけることは容易い。自分たちと異質なものとして非難し、自分がいかに人道的な生物かを語る媒体としては、適当な事案だと思う。非日常的だから。
しかし、そうだろうか。育児ノイローゼになった、もしくはなりかけた母親は、間違いなく多い。大人の苛立ちを何も知らない子どもにぶつけることは誰にだってある。それがあの親の場合、継続した。それだけの可能性もある。決してあの両親は、私たちと「違う」ことはない。してしまったことは、もちろんいけない。しかし、鬼母と決めつけるのは、自分だけは違うという免罪符を手に入れようとしているかに見える。
性同一性障害の子どもの件も、私には同質のものがある様に思える。子どもの人生・生き死にに関して、責任ある行動を両親がどの程度の覚悟を持っておこない、「親」として行動しているか。
沖縄戦では、壕の中で泣く子どもを、親が首を絞めて殺したという。その親は鬼ではないのか?色々考える。
>ビバ☆メヒ子さま
この種の事件が連続し、韓国ではネット系育成ゲームに熱中し過ぎた父母がわが子を餓死させた報道などもそれに拍車をかけましたね
ヒトは不完全な存在だから、揺らぐ可能性を誰もがはらんでいる
誰もが悪たり得る
だからきっと、ヒトは「徐々に親に成ってゆくモノ」だし、「いつ親たり得なくなるかもしれぬモノ」だとも思います
それだけに、ワタシは親になるコトに恐怖を覚えます
かつておっさんやってた頃、こんなワタシでも「老い先短い両親に、孫の顔くらい見せてやっても良いのかもしれないな…」などという、ヒトがましい思いが頭をよぎるコトがありました
でも、それこそオトナのエゴです
そんな自己満足のために、自分では責任をとりかねる新しい生命をこの世に生み出すコトなど、生命に対する不遜ですもんね
「あの時の気の迷いなどにグラついた結果、新しい生命などを生み出したりしないで本当に良かった」と、今更ながら思います
「自分がどう揺らいでしまうかもしれぬ不確定な存在だから、そんな不確実な者が親などになるべきではない」
相変わらず、ワタシはこのスタンスから脱却できないっぽいですね^^;
この世に親たりうる存在って、いったいどれくらいいるんでしょうね…
>親になるコトに恐怖を覚えます
難しいなぁ~。
拙はすでに二人の子の父親なのだが、
「恐怖心」というところまで至ったことはないなぁ~・
そもそも、「親たりうる存在」をどう
定義づけるか?がまずもって難しい。
いったい誰が定義づけるんだ?
学者か?はたまた「親」か?
それとも「子」か?
所詮「親たりうる存在」っていうのは、
あいまいなものなんだろうし、なにをもって
「親たりうる」かを判断すべきかが
根本的に難しい。
拙の場合、
自分の子どもは精一杯愛している。
でも、叱り方、怒り方、褒め方、etc・・・
今でもすごく難しいと思う。
正解がないだけに、毎日が試行錯誤の
繰り返しだな。
だからこそ、親たりうる存在については
応えられない気がする。
でも、子どもに、いつか感謝されるよう
な存在になれたら「親たりうる存在」と
いえるのかもしれません・・・。
>千葉っぷサマ
そうですね
少なくとも「この世界に生じたコトを幸せだ」と、コドモに実感させられなければ、親は親足り得ていないんじゃないかと、あたしも思います
でもその実感ってゆうのが案外クセモノで、最期の最期…今際の際にでもなった時の実感じゃないと何となくウソっぽくありません?
実感なんて、その時々でいくらでも変質しちゃいますもんね
斯く言うワタシだって、自分の内に潜在していたオカマに覚醒する直前までは「まぁ、こんなカンジも悪くねぇのかもなぁ…」なんて、時には思うコトもあったおっさんだったのですからw
「今際の際に至るまで、そうそう安易に結論なんざ出すもんかぃっ!」ってな気分が、現在のワタシの心中に濃厚に立ちこめています
「いったい何が幸せで、どうすればその幸せに至れるのか…」
それをきちんとコドモに提示できないヤツってのは、生物としては親に位置づけるコトはできても、親としての機能と言う点で決定的に何かが欠けているんじゃないかと思うなぁ…
いつか必ず、手に入れた全て失くしてしまうこの世界で、それでも誰かと出逢い愛してしまったコトを後悔せず、新たに誰かと出逢うコトを恐れない
それを教えられるかがカギなのかなぁと、未熟者は愚考するのです
>「今際の際に至るまで、そうそう安易に結論なんざ出すもんかぃっ!」
おっしゃるとおりですよ。
拙も「今際の際」までわからないと思いますよ。
結局さぁ、「親足りうる存在」だと子どもが認めるのは、親の「今際の際」に接したときに感じるものだと思ったりもするんだな。
あとさぁ・・・
>「いったい何が幸せで、どうすればその幸>せに至れるのか…」
>それをきちんとコドモに提示できないヤツ>ってのは、生物としては親に位置づけるコ>トはできても、親としての機能と言う点で>決定的に何かが欠けているんじゃないかと>思うなぁ…
てなことなんだけど、提示するのはなかなか難しいんでないかい?翻って、たとえ提示できたとしても、子どもに自我が芽生えた時、
その子の意志によって「自分なりの幸せ探し」をするような気がするんだけど・・・。
とどのつまり、結局、誰しもが「今際の際」まで、未熟者なんだと思うんだよね。
だから、どんなに偉人とされる人でも、
「未熟者」のままだったんじゃないかな?
と、貴女同様、未熟者の拙は愚考するのですw
>千葉っぷサマ
んー、あたしは親になったコトないから予測でしかないんだケドね、きっと「幸せとは何で、どうすればソコに至れるか」なんて、きっと伝えるコト自体はそれほど小難しいコトではないんじゃないかなぁって思ってるんです
「お父さんがいて、お母さんがいて、自分がいて、兄弟や姉妹がいて、その中に自分がいれるコトがとてもステキだなぁ」ってね、心底から実感させてあげられたなら、それで充分に「幸せとは何でどうすればソコに至れるか」を提示しているコトになってるんじゃないかなぁってね、そう思うんです
この世に生じてきたコトに懐疑の念など抱かせないほどにきちんと愛して、それをちゃんとコドモに伝えようとする努力や工夫をしていれば、それで充分なんじゃないかな
「生きるのに必死で、ソレどころじゃなかったんだ」なんて述懐してる親は、自分が生きるコトだけがんばってりゃ良かったんであって、そんなヤツが妙な色気だしてコドモなんぞつくってんじゃねぇっ!って吐き捨てたくなります
「だいたい必死だったってワリにゃあ、ヤルことやってんじゃねぇか 溜め込んでた性欲吐き出す余力はあったってコトなんだろ!?」ってね、ついつい詰問調になっちゃいますね^^;
↓へつづく
あんまり言い過ぎても可哀相なんですケド、やっぱり数十年をかけて鬱積させ続けてきた「親という存在に対する憎悪」は、こんなカンジでなかなか払拭できないモノですね
聞かされてる皆さんにも申し訳ないなぁとは思っているのですケド、「言い出したら止まらなくなっちゃうから、できるだけヒトには言わないでおいたコト」が、ココにきて一気に…ってカンジみたいです
あんまりドロドロしてて聞くに堪えない時には、どうぞスルーしちゃってくださいますように…
精神的未熟児が吐き出す呪詛なんぞに付き合ってると、身が持ちませんから…
余談です
この国の開闢にあたって国産みしたイザナギ・イザナミってのがいるんですケド、こいつらが最初に産んだのは「蛭子」ってゆう不具の子なんです
このヒルコはね、ほんとならこの国に最初に生じた神となるハズだったんですケドね、不具ってコトで葦船に乗せて川に流して棄てられたんですって
この子が永らえていたなら、きっと似たような憎悪を吐き散らかしていたでしょうね
親に愛されなかったコドモなんだから、自我なんぞが生じる前に死ねて良かっただろうなってね、あたしは思います
そうそう、もいっこ追記です
よく↑みたいな泣き言ほざいてると「親に産んでもらっといて、まだそのうえにモノ欲しそうなコト言って、みっともないと思わない?」なんて言われたりしたものでした
「モノ欲しそう」って言えば確かにそう聞こえるんでしょうケドね、あたし自身は「産んでもらって…」なんてゆう風に感謝の念を感じたコトなんてコレっぽっちもないから、発想の根本から違っちゃってて、そうゆう論者のヒトとは出だしから噛み合わないのです
こうゆうヒトってきっと「生まれて生きてきたコトに手応えとか充足感」ってゆうのをちゃんと感じてるからそう言えるんですよね、きっとw
羨ましいコトだなぁとも思うし、根っからおめでたいヒトだなぁとも思えるしで、ちょっと侮蔑しちゃいます
「そんな充足感、一体どうやったらそんなに簡単に実感できるんだい?」ってね
サルにでも生まれてたら、こんな憎悪なんぞに苛まれるコトもなく、きわめて幸せだったんでしょうにねぇ、まったく…ww
あたくしは。
なにか感覚がずれているのか、どうなのか、
ありのままを受け止めちゃいます。
オナノコだ、というオトコの方は
オナノコだと思ってます。
街で、女装?する本気のおじさまがいらっしゃいますが
話したことはないけど、いつもあの格好だから
オナノコなんだなぁって。
でも、学年途中(しかも同じ学校)で
扱いを変えられるのは、
本人がどうしてもというならいいのですが、
難しい問題がありますね。
人間はなぜ産まれるのか。のところまで行きますね。物理的なことは置いておいて。
しかしあのヒルコの話もすごいもんです。
>のだめ☆ぼんじゅーるサマ
おともだちになってさっそくのコメント、とっても嬉しいです
この5thブログは、どっちかってゆうと小難しそうな言葉でどうでも良いようなコトに難くせをつける…というのが今のところの流れになってるっぽいので、初めて訪れてくださった方は、Yahooやmixiのノリとのギャップに戸惑って、なんだか気後れしてしまうそうですw
ホントはココもちゃんと乙女設定でやってくつもりなんですケド、どうも最近は胸の奥の方に黒々とした怨念みたいのがうねってまして、ただのネガティブな皮肉屋だったオカマがハイパー化してるみたいです
せっかく遊びにきてくださったのに、はなはだ心苦しい限り…
ま、た~まにバカなネタも入れてかないと、ただでさえ少ないお客サマが減っちゃいますので、気長に今後に期待していただけると幸いです
ちなみに蛭子…葦船で流されてその結果、海を漂ったのち摂津国西浦(兵庫県西宮)の海岸に漂着
土地の人々は拾った蛭子神を夷三郎(エビスサブロウ)と呼んで大事に養い育て、そののち夷三郎大明神、戎大神として祀られるようになったそうです
エビス神は海の神であり、豊漁や航海の安全、交易の守護神
一般には「えびっさん」として親しまれ、七福神の中の大黒と並び称されるように、商売を繁盛させて富と幸福をもたらすと信じられている福神となりました
産みの親に棄てられても、ちゃんと慈しんでもらったコトで、ヒトに福をもたらし得る存在になれるんですね
あたしもあやかりたいモノです