「雄略天皇の頃…」というから、もはや神話の時代と言っても良いのかな
いちおうwiki的には、紀元(皇紀じゃないょ)419年~479年が雄略の存命期間だから、1500年以上前のおはなし… っていうか、伝説ってコトで…
んでゎ行ってみましょう
それは、古事記の中のおはなし…
雄略天皇、あるとき大和に遊びし折、三輪川の畔で衣を洗濯している美しい乙女と出逢った
帝、乙女に問いて曰く
「汝は誰が子ぞ(この当時、男が女に名を問う行為は『求婚』を意味する)」
乙女、応えて曰く
「引田部赤猪子(ひけたべのあかいこ)と申します(名問いに答えるのは承諾の意味)」
「汝は嫁がずにおれ いずれ宮中に召してやろう」
赤猪子にそう言い残し、帝はその場を去った
このため赤猪子は帝のお召しをひたすらに待ち続け、ついに齢80を数えるに至った
このときに至って赤猪子、ようやく思いあまって曰く
「お召しの御命がくだるコトを願っている間に、あまりにも永い年月が過ぎてしまった 容貌は痩せ老いて、もはやお召しの希望を恃むコトも無理だろう そうかもしれないが、ずっと待ち続けたこの心情を帝にお伝えせず、このまま死んでゆかねばならないのは、あまりにも忍びないことだ」
そこで赤猪子、数多くの引出物を供の者に持たしめ、帝のいる宮中へと参内した
しかしながら帝、はるかな昔に約した気まぐれな言葉を忘れ、赤猪子に問いて曰く
「汝は誰が老女ぞ 何のゆえに宮中に參り来たのだ」
赤猪子、応えて曰く
「あの年のあの日、帝の御命をたまわり、あの時よりお召しの時をただひたすらに待ち続けて齢80を数えるに至りました もはや容姿はかくのごとく老いさらばえ、お召しの希望も望めないでしょう そうではあるけれども、せめてこの胸にずっと抱き続けた真心だけでも帝にお届けしたいと思い参内した…ただそれだけでございます」
帝、大いに驚きて曰く
「我は、そんな約束をしたコトなど当の昔に忘れておった しかしながら、汝が節を守って我が命を待ち続け、汝が旬の頃をむなしく過ごさせてしまったコトはあまりにもけなげで、そして痛ましいコトだ」
帝、心中では娶ってやろうかとも考えたが、赤猪子がひどく老いさらばえ、もはやそれも難しかろうと慮り、御歌を下さるコトでその心に報いてやることとした
其の歌に曰く
御諸の 厳白檮が下 白檮が下 忌々しきかも 白檮原乙女
(みもろの いつかしがもと かしがもと ゆゆしきかも かしはらおとめ)
対訳:三輪山の神聖な樫の木の下…白樫の木の下は決して侵してはならない場所 その場所のように、あの時は触れるのも憚られたのだよ、橿原の乙女は…
また歌いて曰く
引田の 若栗栖原 若くへに い寝てましもの 老いにけるかも
(ひけたの わかくるすばら わかくへに いねてましもの おいにけるかも)
対訳:引田の地に若い栗林があるよ 栗のイガの中には実がなかよく並んで入っているが、あれみたいに若い時に一緒に寝たかったのに、お前はそんなにも年老いてしまったのだなあ
賜った御歌を聞いて赤猪子の流す涙は、その丹摺(にずり:赤い色)の袖を濡らした
赤猪子、帝の御歌に応え歌いて曰く
御諸に 築くや玉垣 つき余し 誰にかも依らむ 神の宮人
(みもろに きずくやたまがき つきあまし たにかもよらむ かみのみやびと)
対訳:三輪山の神社に土で美しい垣を築きます すっかり築き終えると土が余ってしまいます そんな風に無用に残ってしまった私は、いったい誰に身を寄せればよいのでしょう 途方に暮れている、神社の巫女みたいな私は…
また歌いて曰く
日下江の 入江の蓮 花蓮 身の盛り人 羨しきろかも
(くさかえの いりえのはちす はなばちす みのさかりびと ともしきろかも)
対訳:日下江の入江には蓮が生えていて、美しい花を咲かせます その蓮の花のように盛りの年齢にある人が、私には羨ましくてなりません
かくして帝、数多くの品々を下賜し、以って赤猪子を引田の地に帰らしめた
—– fine —–
化学の分野をちょっとかじると、ときどき「不安定な物質」というのに出くわす
物質が化学変化を起こす時、「ごく稀に」生じる物質で、たとえばオキシドールの成分である過酸化水素なんかは、放っておけばどんどん酸素と結びついて水と酸素になってしまう↓
コレはつまり、過酸化水素でありつづけるよりも、水と酸素でいる方が物質として安定的なのだ
過酸化水素でありつづけるというコトは、そういう意味からすると非常に稀有なコトなのだとも言える
過酸化水素も、水と酸素も、どちらもその成分は同一であるハズなのに、ちょっとしたさじ加減ひとつで、物質としての性質は両極に振れる
今回の赤猪子のおはなしを読み解く時、そんな事々などを考えあわせて読んでみると、なかなかに意味深だ
水が常に高きところから低きところへ流れ下るように、物質は常に安定化の方向へと、その組成を変化させる
ヒトのココロの在りようも、やはりそのようなモノであるのか、あるいはそうとは言い切れぬモノなのか
不安定な物質を、安定化させずに不安定なまま維持し続けるには、それなりの無理ってヤツが必要だが、その「無理」ってヤツは何を成分とし、何によって生み出され、何によって維持されうるのか
ワタシの胸中にある泉から今も変らずに湧き出る清水を、怨念で濁らせるコトなく如何にしてその清澄を維持し続けるか
「至純にして一途」というコトと「業の深い地縛霊に堕ちる」というコト…
数十年後、幸か不幸か生き永らえていたとして、果たしてワタシはどっちに転んでいるのか
そういった事々が、現在のワタシのテーマだ
週が明け来月の2日になると、佐賀では「唐津くんち」と「バルーンフェスタ」が催される
夜の帳が下りて、地上に係留されたたくさんの気球に色鮮やかな灯がともされ、それはそれは幻想的な美しさなのだという
その嘉瀬川のほとりで、涼しげな瀬音に耳を澄ましながら、あの方と並んでお散歩するコト
それがあの時に見た夢だった
あの方と一緒に見た夢だった
だからワタシの名前は「嘉瀬川の涼音」
5年の月日が流れても、あいも変らずあの方を想い続けている、そんなワタシの通り名だ
その、虚しく過ぎていった月日の中で、赤猪子とおなじくワタシの「オカマとしても旬の季節」もいつのまにか過ぎ去って行ったようだ
若い娘どもやオトコの娘どもを見るにつけ、「身の盛り人 羨しきろかも…」てな気分に襲われる
齢80を過ぎた赤猪子が、年甲斐もなく「丹摺」の衣を身につけて参内した胸中… そこに在ったのはきっと、恐るべき圧力で胸中に圧縮・封入され続けた、哀切なほどに抑えがたい「オンナ」としての成分だ
今となってはソコにこそ、哀しい共感すら覚える
ワタシも同様に、今から数十年の時間を経て、もはや今際の際を迎えようとしている時にも、一途なオカマで在り続けていたいモノだ
世に存在するコトが至難であるコトを指して「在り難い」と言うのなら、きっとワタシは、そんな「ありがたい」ココロの在りようを求めているのだ
ソレはつまり、言い換えるなら「不安定な存在を維持し続ける」ってコトだ
「在り難い」とはつまり、「奇跡」ってのと同義なのだ
ワタシはソレを欲している
自らの想いを自らの内に封じ込め、なおかつその想いに怨念を帯びさせてしまうコトのないよう、跡形もなく昇華させて、天へと還してしまうコト…
奇跡とは、至純なる祈りとは、それを指して言うモノなり
コメント
はじめまして。
コメントするのは初めてですね。
とても、切ないお話です。
心に種をまかれて、信じて、時を重ねる。
身を切るような切なさと共に、実は残酷な夢。
でも、ココではそれが一つの形として結実している。それは救い。
別のお話で、男が帰ってきて、男が喜んだのを
復讐(暴露?)するのもありますね。これも情念。どうしようもない心のなりゆき。
ラジカルと重ね合わせるのは興味深いですね。
なんとなくロビンさんらしいです。
とものラジカルのイメージは苛烈。
まわりを傷つけずにいられない悲しさ。
変なコメントでしたね。
ごめんなさい。
>ともサマ
はじめまして、ようこそいらっしゃいまし♪
こんな辺境の、キテレツなオカマの戯言にも怖気づくコトなくコメントくださいまして、衷心よりの感謝であります{%一言・ペコhdeco%}
赤猪子のおはなしでコメントが入るとゎ、さすがに想定外でしたょ^^
ヒトのココロも、どちらも非常に「不安定」な存在で、永い時間の中でどんどん変質していってしまったりしますよね
特にワタシの場合はソレが顕著でして、ついこないだ「こんちくしょぅっ! 生かしちゃおかねーぞっ!!」って殺意を抱いた人間に対してさえ、いつのまにかその憎悪を消失させてしまったりするコトも多かったりしますw
比較的に長続きしやすい「憎悪」とか「怒り」系の感情でさえそうなのですから、まして「思慕」だの「恋慕」だのという様な感情を、経年劣化させずに永続させるコトなど、じつゎ全く自信がないのです
ソレにもかかわらず、5年の月日の移ろいの中でさえ、一向に薄らぐコトも変質するコトもないままワタシの心中に残留し続けるこの想いというヤツに、「誇り」みたいな気分をほんのちょっとばかり芽生えさせていなくもありませんw
↓へ続く
↑のつづき
でも、だからといってその想いとは別に、ただ虚しく過ぎて行く時間の中で、不本意ながら胸中に反芻してしまうコトバが生じてきてしまうのも事実です
「何がダメだったのですか…」とか「どうすれば良かったですか…」とか「どうして仲良しには戻れないのですか…」とかね^^;
ソレらは、生じた時こそ「悔恨」とか「懺悔」とかの心境から生まれた「至純の結晶体」みたいなモノなのですケド、放っておくとスグに安定化しようとして、いつのまにか「怨念」みたいなモノに変質しようとするのです
その変質を、いかにして抑制・阻止し、至純なまま保持するか… それがコレから先の、ワタシのテーマではあるのですケド、作為的にソレを考慮せねばならないという時点で、なんというか「我ながら無理があるなぁ…」と、やってる本人もかなり自嘲気味だったりします
そうゆう意味では、ワタシの胸中に一点の曇りもないワケではなくて、否、むしろ曇りだらけのようなモノでして、実はとうの昔に「怨霊」とか「地縛霊」とかに成り果ててしまっているのかもしれません
だから、ワタシのもいっこ別の通り名は「荼枳尼の清姫」
「荼枳尼」とは、ヒトを獲りて喰らうヒンドゥ教由来の夜叉神
「清姫」は、ひとりの男をあまりに強く想うが故に、蛇に堕ちざるを得なかった哀しい娘の名
「清姫」と「涼音」との間を揺れ動きながら、今日も足掻いてるのがリアルなワタシだとすれば、きっと、ともサマの御心とも共感しあえる様な気がします
また、よろしければ気の向いた時にでも遊びにきてくださいまし{%謝(ヒタヒタ)hdeco%}
ご丁寧な返信 ありがとうございます
ロビンさんには 抜き身の美しさ を感じます
丹念に 丹念に 幾重にも 鍛えられた
積層の情念 三輪山の 神の宮人
ダーキニーと清姫 もてあます情念
想いの強さ 深い愛増
身を焦がす情念は 炎と化し
見るものに鮮烈な想いを植え付ける
ましてや涼やかな清涼の音が伴っては。。
勝手な言い分で申し訳ございません
もしお許し頂けるのであれば
時々は お側にて
なんというか、遂げられない思いは、生き霊のようなものへ変化しがち。可愛さ余って憎さ百倍という感情は、心理学的には解明されてるんだろうか。
雄略天皇の話は、漱石の夢十夜の第一夜に通じる(逆か)。愛が形を変えないことは、あり得るのか、ないのか。
人の気持ちっちゅう奴は、ままならんなぁ。
>ビバメヒコン川サマ
改名おめでとうございますw
良い響きですねぇ
遥か南支那海の更に西… メコンデルタの、肥沃にして広大な稲作地帯が目の前に突如ひらけたかのような錯覚すら覚えました(ウソw)
越南といえば革命家ホー・チ・ミン
鳴り止まぬ「ホー ホー ホー・チ・ミン♪」の歌声が、革命に胸を焦がした若き頃よりずっと、脳内にこだまし続けていますょ
え、しらない?
そんな貴兄にはこの動画↓をプレゼント♪
http://youtu.be/lq2OUiw2PyY
一度再生を始めると、ホントに鳴り止まなくなりますから、適度なトコで止めてくださいねww
あぁ、前置きが長くなり過ぎましたw
数日前のニュースで、「福島の二号機でキセノンが検出された」ってやってたでしょ?
あれに似てるんじゃないかなぁって思うのです
あれって、核分裂が発生する際に「副次的に」生成される放射性物質だそうです
↓へつづく
↑のつづき
それと似ていてね、想いが「変質する」というのではなくてね、想いを維持し続けると「副次的に別の想いが発生する」んじゃないかなぁと思うのです
胸の内の想いを維持しようとした時、望むと望まざるとに関わらず発生してしまう別の感情
その感情と、原初にあった思慕との「比率」の問題なんじゃないかな
胸内の原子炉に「思慕」という核分裂の炎を灯した時、当初こそ0-100の比率だったものが、時を経るにつれて10-90になり20-80になり、やがて50-50の比率を過ぎて60-40になったりすると、愛と憎悪は相転移を起こすんじゃないかと思ったりします
そうゆうのって、きっと自然な現象なんじゃないかな
その副次的生成物質ってゆう感情を、どうにかして不活性化させたり除去したりプルサーマルみたいに再利用できる術はないものかというのが、現今のワタシのテーマです
熱力学的な視点からすれば「エントロピーの法則からいって、そんなのは無理」なワケですが、その無理を承知の上で、それでも「奇跡」ってヤツを模索するのが元・魔法少女ってもんですからw
ホントは、そんな相転移を起こす前に、自分から消えちゃえば良いだけなんですケドねw
なかなかどうして、へっぴり腰のオカマは今日も未練たらたらで生き永らえていたりするのでした
胸に灯した想いってヤツには、ちゃんと殉じてやりたいものでありまするな…