ハナったらしの頃、「日本沈没」という作品があった
♪~さっよぉほならっとぉ なぁかぁないでぇ~♪ ってな具合に、五木ひろしが暑苦しいカンジで歌うTV版の主題歌が大キライで、それゆえによくマネしたものだ
<五木ひろし:日本沈没OP「あしたの愛」>
なんというか、ウルトラシリーズの主題歌が浪花節とか都都逸で歌われてるかの様な違和感で、これほどの作品に、こういうベタベタの歌ってどうなんだろう… と、いまだにこの違和感に承服できないままだ
時代的には五島勉の「ノストラダムスの大予言」が最初のブームを迎えた頃
公害や資源危機、国家間の軋轢などを社会背景としていて、「世紀末への不安」とか「末法思想」なんてのが、そういった風潮や気運を醸成していたのだろう
小松左京の名著「日本沈没」と、五島勉ごときの「大予言」とを同列に並べてしまうのは甚だ心苦しいのだが、当時、ヨノナカの多くがそれら2つに対して望んだのは「来るべき近未来に訪れるかも知れぬ『怖いモノ』をチラ見させてくれる小道具」としての役割だったに違いない
じっさい、両作品が大衆の非常にさもしく下世話な欲と好奇心を満足させたという点を、おそらく誰も否定できないだろう
ハナったらしだった当時のワタシも、そういうのを望む下衆の内の一人だったから、ドラマを見ては世を儚み、五島を読んでは絶望するという、末法の世のコドモの一人だった
TV版の「日本沈没」では、巨大地震と活性化した火山活動、そしてそれらに伴う津波といった不可避の天変地異によって徐々にこの列島が海中へと没してゆき、ついにこの国土の上に生きる人々は、海外に脱せざるをえない日を迎えるというありさまを、暗澹たる調子で描いていた
しかし、そういう「世の風潮に迎合してヒトビトの不安を煽り、そうするコトで自身のメシのタネとする」というメディア側のやりくちとは裏腹に、原作者の小松左京の主題は、当時の一般的なヒトビトの関心からは飛びぬけてエキセントリックな所に置かれていたように思われる
この国土を離れ、故地を失い、それでも日本人は日本人たりうるか…
ソレを語るための必然として、この列島は失われなければならず、列島を消失させるには巨大地震や津波という設定を存在させなければならなかった… という逆算的発想から、この作品は構想されたと言える
古来よりこの世界には、何らかの理由によってその故地を離れ、各地を漂泊・流浪せざるをえなかった民が数多く存在した
ユダヤ(ユダヤ人は人種ではないが…)・ロマ・バスク・アイリッシュ・ラップ・サンカ(これも人種とは言いがたい)・ギリヤーク・etc …
それらの中には、永い時間の中で迫害差別に晒されて衰微したり滅亡に至ったモノもあれば、周囲に融和して自らの輪郭(アイデンティティ)を消失していったモノもあり、また一方で現在もなおその存在を固持している集団もある
その最たるモノとして、たとえばユダヤ人というヒトビトに思いをめぐらす時、たとえば現在、ユダヤ人と呼ばれるヒトビトが、数千年の時を経て今もなお原初のユダヤ人と変らぬ気質を保持しているとは決して思えない
しかしながらその一方で、「ユダヤ人」という呼称で自らを括り、また同時に他者から括られるコトによって、ユダヤ人は古きユダヤ人的気質の何割かを現在まで保持存続させるコトが可能だった… とも言えるのではないか
民族融和的施策の下で、それでもマイノリティがマイノリティとしての輪郭線を維持し得た… と言うようなハナシを、ワタシは寡聞にして知らない
そのように考えてみると、太古の昔から、マイノリティの集団がマジョリティに併呑されぬまま自己の輪郭線を維持存続させ得た背景には、そのような「意識的な境界線の設定」が不可欠であった… と言っても過言ではなかろう
以上のことを前提として以下のハナシをしたい
まもなく福島の、なんとかという地区では、首長を選ぶ選挙が行われるという
その地区は現在、避難区域に指定されており、放射性物質の除染作業も遅々として進まぬままだ
住民は、別の地域で仮住まい生活を強いられた状況にある
首長には2人が立候補していて、一方は「彼らの故地を離れ、別のなんとかという地区への移住・合併」を主張
もう一方は「住み慣れた故郷への早期帰還」を主張しているそうだ
どちらの主張もそれぞれに充分な根拠を有していて、たとえどちらが当選してもワタシは一向にかまわないと考える
考えるがしかし、仮に前者の首長が当選し、その主張に従って全戸の住民が他の地域への移住・合併を行った時、その住民は果たして一体いつまで、かつて故地に暮らした住民であったというアイデンティティを保持し得るのであろう
更に言うならば、では一体「その土地に住まうニンゲンである」というアイデンティティとは何であろう
ワレワレは… 否、少なくともワタシは、果たしてそう言った「自己の輪郭線を明確に規定する何事か」を、心胆に確固として保持しているのであろうか
時の経過の中で、「コレこそがワレワレである」という自己の輪郭線をいつの間にか消失してゆき、やがて周囲に溶け込んで消え果ててしまう… そういう脆弱な自己像しか有していないのが、この列島の上に棲息するワレワレというモノの正体なのではないか…
であるならば、「コレこそがワレワレをワレワレたらしめる主成分である」などと、一々リキんで呼号するような何事かを持たぬ方が、実はいち早くメンド臭い呪縛から解き放たれ、幸福へと近づける方途なのかもしれぬ
「日本人とは斯くあるべし」とか「大和撫子たるもの」といった自己規定のためのなにかなど持たぬままの方が幸せなのではないか
発泡酒の泡粒のように湧いては消え、消えては湧く自問自答…
アタマではそのように考えながら、しかしそれでも、ワタシのココロは一向に呪縛からは解き放たれない
呪縛にとらわれるのは、つまるところエゴだ
この世に長く生きれば生きるほど、垢の様にこの身に染み付いて離れぬ「こだわりの心」… 言い換えるなら「愛憎」こそがそういった呪縛を生む根源だ
生まれたばかりの無垢な赤子にエゴはなく、それゆえ物事にこだわる心もなく、それゆえココロに「愛憎」を生むコトもなく、ゆえに呪縛にはとらわれない
生まれたばかりの赤子は、たとえ如何なるマイノリティの下にその生を授かろうとも、何者にでもなれる可能性を有しているのだ
自己を育む社会というモノから、「いわれなき境界線」によって己を不本意に括られない限りにおいては… という前提が満たされればのハナシではあるが…
追加の動画です↓
コメント
またきてしまった。
涼音さんの文章を読むと落ち着くのは何故?
自己の輪郭線。ともはそれが希薄。
いつも勝手に踏み込んでは相手に引かれる。
気がついたらいつも孤立している気がする。
何故?何がいけないのだろう。
涼音さんはアメブロ持ってないだろうか。
ロビンさんともすずさんとも違う名前で。
歴史のグルッポ立ち上げて、
すずさんに是非来てもらいたいと熱望するのに
それをしてはいけないとの自制も。
つらい。やっぱりペイモンに魅入られてる。
賢くなんかない。
だからすずさんの聡明な意見聞くと
落ち着くのかも。
希薄な境界。気づかぬ自分。
こわばった顔で指を指され、
気がつくと踏み越えてる境界線。
泣いてるのは自分自身。
孤立感が引き立つのみ。
わからない。どうしてそうなのか。
変なコメント ごめんなさい。
消してもらってかまわない。
でもこれだけは伝えたい。
ありがとう。感謝してる。
なるほど を押しつつもあと何十回と熟読しなければ完全には理解できない自分が居ます。
なるほど を押しつつもあと何十回と熟読しなければ完全には理解できない自分が居ます。
>ともサマ
御気の向くまま、いつでも何度でも、ようこそいらっしゃいまし
アメブロにも居場所は作ってあるのですケド、まだなんにも記事をアゲてないのですょ↓
http://ameblo.jp/robin-the-clockwork/
ともサマのブログにも、日に何度かは遊びに行かせていただいていますょ
ただ、ご招待いただいた記事では、よく周囲を見回さずに長々とコメを入れてしまったのですケド、よくよく見てみればあの娘も訪れている場所でもあったので、その後はコメントは遠慮させていただいてます
ワタシの存在が障害になって、あの娘の居場所のひとつをまた奪ってしまうのはイヤなので^^;
↓へつづきます
つづきです
輪郭線の規定に関しては、ワタシもさほどに確とした何事かを持っているワケではありません
自分とは何者であるか… そう考え出してしまうと、ちょっとテーマが抽象的すぎて考えがまとまらなくなってしまう気がします
自己像とは、他者との比較の中で相対的に規定されるモノ
とすれば、「家族」という最小社会を考えるコトがカギとなるように思えます
捨て子などの特殊な状況を覗けば、「家族」とはニンゲンが生れ落ちて最初にくるまれる社会であり、そして最小単位の社会でもあるからです
その、原初の場所で、ヒトは自己像の基幹を練るのではないか
乳を吸うコトで「母」を認知し、認知するコトで自他の意識が芽生え、「ワタシ」と「ワタシ以外」という概念が発生する
「ワタシ以外」である母は、「ワタシ」とは何が違い何が同じなのか
母の横に立っているのは何か
それは「父」という、「ワタシ」とも「母」とも異なる第三者
父と母とワタシは、何が異なり何が同じなのか
父・母の横に立っているのは何か
それは兄・姉という「ワタシ」とも「父」とも「母」とも異なる存在
兄・姉と父と母とワタシとでは、何が異なり何が同じなのか… ってな具合かなぁ
更につづきですw
で、自己の輪郭線を規定してゆく過程がそのようであるとしたら、異なる部分を挙げていくよりも、同じ部分を考えた方が効率的な気がします
だってニンゲン一般を考えるんですから、同じ部分の方が圧倒的に多いハズですもんね
形質的な部分がまずは最初ですよね
手脚が2対づつとか、毛が生えているとか、肌が浅黒いとかね
でも、そういった形質的なコトや身体能力的なコトって、たとえば月から地球を眺めて見れば、大した差異にはなり得ない気がします
ワレワレが蟻の群れを見ても、一匹一匹ごとのの個体差を認知することがほぼ不可能なのと同じです
とすれば次に考えられる「同じ部分」とは何でしょう
生活習慣かな、いぁ、生活信条かな
たとえば「どんなコトに怒りを感じるか」とか、「どんなコトに安らぎを覚えるか」とかね
コレは、先に挙げた差異などよりももっと、輪郭線らしいモノになるのではないでしょうか
朝鮮民族と大和民族の差異なんかを考えてみると、ずいぶん鮮明に色分けできそうでしょう?
どちらも、一応は儒教文化圏には入っているケド、原理主義的とも思えるほど「長幼の序」なんかをうるさく言う文化圏と、さほどうるさくない文化圏とか
同姓婚を畜生の振る舞いと考える文化圏と、そんなコトちっとも気にしない文化圏とかね
こういった生活習慣や信条ってゆうのを、どのレベルまで共有しているか… を考えてゆくと、求める解の像がおぼろげに見えてくるんじゃないかなぁ
まだつづくみたいww
コレが最後と信じたいw
ワタシというニンゲンは、何を喜び、何に泣き、何に怒って、何に驚くのか
自己を包む大集団から小集団へと視点を絞り込んでゆくコトで、その成分を分離抽出できる気がします
そんな事々を、ぼんやりと考えた記事がコチラ↓
http://robin-the-clockwork.at.webry.info/201001/article_9.html
逆算によって、少しずつ自己を規定する主成分を解析してゆく作業の、その途上にあるのが、どうやら現在のワタシのようですょw
>フォウさま
むむっ!?
来たか、我が弟子ょw
こんなヘッポコな記事は、理解するに値しないモノですから、熟読しないで良いのですょ
簡単なコトを小難しく言って、ヒトをケムに巻くのが得意だね、キミゎ… と、大学のゼミの教授に言われたほどの詐欺師ですからw
「あぁ、またなんか呪文みてぇなコト言ってんなぁ…」くらいの勢いで、一気に読み飛ばしませう{%うれしい(ルンルン)hdeco%}
涼音さん文系でしょ 笑
ともの家族の考えはいたってシンプル
母はXとミトコンドリア、父はY
それぞれの遺伝情報提供者であり、
生物学的本能に基づく庇護者。
(ただともは両親には恵まれてたから)
二枚の設計図の複合度合いによって
斑模様のようにその作品は千差万別。
ただし、元が同じだから、家族血縁境界外
からはかなりの同一性、類似性が見られる。
この規定の条件を狭めるか広げるかで
分類は異なる。
かなり大きな分類では
現存する宇宙空間の原子を構成要素とする
物質の一 という感じ? 広すぎる?
そう同じ体験、価値観、文化の共有は
境界を定めるのにとても大切。
儒教文化圏?
そんなの為政者に都合が良かっただけ
で、やっぱりそこにきますか。
涼音さんはホントに内面が強固ですね。
想いが強くて、強くて、強い。
そこがすずさんの素敵なところ。
惹かれるところ。
ごめんね。つきあってもらって。
そう、彼女がいるから、
あんまりきちゃいけないって思うんだけど
ごめんね。涼音さんも好きなの。
でも、あのURLだと、もろばれよね。
残念。
で、凡我一如にとんで と
うん やっぱりすずさんの文、面白い。
危うい気がするけど またこさせてください
言っても詮無きことだけど、いまグルッポで
易経と陰陽五行説、中国の科学と思想について
メンバーの人がすれ立ち上げてるの。
ヤマト好きだからすずさんとあうかも
(かってにヤマト好きにしちゃってるし、、)
でも、読む人が読んだら、すずさんって
すぐわかっちゃうものね。
ごめんなさい。失礼で不躾なことを。
でも 本当にありがとう。
またこさせてください。
とも
よろしかったらameba ログイン?
感受性及び読解力の乏しさにより、何を言わんとするのか、掴めないわ。昔から君の得意とする、懸論ちゅう奴か?
放射線状に周囲に影響を与えながら生きるパターンと、自身を包み込みながら内向きに保守的に生きていくパターンと、二つアイデンティティーは存在するのだと思う。その二つは同時に同じ集団に存在し得るもので、時代時代によって、どちらかの傾向が強くなったり弱くなったりしつつするのだと思う。ある時は、外に影響を与え、ある時は貝が蓋を閉じるように保守に徹する。そういう変遷を経て、アイデンティティーは守られているのではないだろうか。
例えば、日本人(一応ひとくくりにする)も、長年独自の文化体系を守りつつも、敗戦後はあっけなく欧米文化と融合するような時期(今ね)を経て、将来的には、その反動で保守的なものに回帰すると思う。日本人のアイデンティティーという観点で見れば、今は、(無意識であろうと)臥薪嘗胆の時期だと思う。
アイデンティティーというものは、そういうもんでないのかね?
>ビバ☆メヒコン川
いぁ、それはひとえにワタシの記事の不出来ゆえ、でありませうw
んーとね、「この記事の主旨」ってのがあるとすればこんなカンジ↓なのかな
福島のなんとかという街のヒトビトが、仮にその街を放棄する選択をしたとする
コレはつまり、「個人の漂泊」でも「血族の流浪」でもなくて、「集落単位での流民」となることの選択なワケですよね
個人、または血族くらいまでの集団なら、そうゆう流浪も充分にありうるハナシだと思うし、それ位の規模の集団ならば、ある程度の「生活信条」とか「一族を不文律で貫く気分とか感情」みたいなモノも共有可能なのだと思うのです
つまり、その辺までは「自己の輪郭」を拡張するコトが可能だと思うのです
でも、そうゆう「血族」の枠をも包含するような、ある程度の規模をもった小社会が、まるまるの流民となる事態が、いま、この日本に現実に起こるかもしれないワケです
血族以上の規模に大きくなったニンゲンの集団って、基本的に「アカの他人の集まり」じゃないですか
その「アカの他人の集まり」がね、ソコの住民の意志に基づいて「恣意的に流民となる」コトを選択した時、彼らはたとえばユダヤ人のように、その後の永い時間の中でも「その地域にいたヒトビト」という意識を保持しうるのかなぁ… と、疑問を持ったのです
同様にね、ワレワレは時に民族愛みたいなモノに気分を昂揚させたりしますケド、果たしてワレワレが、自分がいま立脚しているこの土地ってヤツを、何らかの理由によって放棄せねばならない事態に遭遇した時、ワレワレ自身の「輪郭」をどれくらいの間、維持しうるんだろうなぁと、我が身を振り返ったのです
↓へつづきます
↑のつづきです
ワタシの様なテキトーなニンゲンは、もしかしたら半年もしないうちに、自分の輪郭線がぼやけてしまって、もしかしたらアメリカ人とか朝鮮人というヒトビトに溶け入ってしまうんじゃないか…
そう思ったのです
と、同時に「そうありたくない」とも思ったのです
で、もしそう望むのなら、自己の輪郭線をぼやけさせないためには、いったい何が必要な要素なのだろうと考えました
そうして思い至ったのは「みずから自分を括る」コト
そして「周囲から括られる」コト
なのですケド、「括る」という行為は「カテゴライズ」なワケじゃないですか
カテゴライズというのはつまり、いくつかのモノが集まった「集合」の、その性質を成分化して抽出する作業ですよね
たとえば「肌が黒い」とか、「毎週金曜日には礼拝を行う」とかね、そうゆう性質で括るコトでしょう
そうゆう「括り」の存在が、良いとか悪いとかを言いたいんじゃないのです
「括り」とは自らを包含する集団を特徴づける主成分だと思うし、更に言えば「どんなコトを悦びと感じるか」とか「どんなコトに怒りを感じるか」とか「どんな生き方を美しいと感じるか」なんてゆうトコまで、そうゆう成分は拡張できると思うのです
福島の、なんとかという地区のヒトビトには、そうゆうモノが確としてあるのかなぁ…と
同時に、ワタシにはそのようなモノがあるのかなぁ…と
不安になったのです
ワタシは、いつまでも確かに、日本人でいられるのだろうかと、とても不安になったのです
そして更に言えば、そんな意識にとらわれなければ、きっとヒトは、とても自由に生きられるのだろうなぁ、とも思ったのです
そのような生き方が、果たして手応えある生き方なのかは判りませんが…
少しは伝わったかなぁ…
追伸
「懸論」って、検索してもそれらしい解説がないのです
どんな意味??
コメントを返していて、なんとなく雰囲気に合いそうな曲を思い出しました
記事の末尾に追加しておきますね
よろしかったらご視聴あれ♪
人のお話に割り込む形?
不作法よね。
ごめんなさい。
ただの独り言。。。
言葉が 不思議だったから。
涼音さんの輪郭がぼやける?って言葉
やっぱり人は外面と内面は違いますね
涼音さんも人 揺れ動く内面
でも あらわれるのは 強固な意志
リアル涼音さんは 弱音吐くのかな?
あっでも、これ リアル涼音さんかも。
ともはね リアルだと 弱音吐けないの。
下は思い出しただけ、
意味もなく書いてるだけ
それ以下の法体、遁世・修行の身に至りては、とそうを本とすれば、いかにも思ひ入たるすがたかかり肝要たるべし(風姿花伝)
うまじものあべ川とかかり、あさもよし、きとうけて、昼くふもよし(浮世風呂)
懸論(けろん)とは、仏教用語であるらしく、「あってもなくても大勢に関係ない論議」という意味らしい。と言うのも、滋賀の柔道マンから24年前に放出された言葉であるから、それ以上は詳しく知らないのだ。「私の話がそうだ」という風に使われた記憶がある。彼の造語なのだろうか?
しっかし、大勢に意味のある言葉ばかりじゃ、警察の調書と同じになってしまうよな。
アイデンティティーの在り方は、他文化との共生と一言で言っても、溶け合う様式(分離出来ない)と混ざり合う様式(野菜13品目サラダみたいに、分けようと思えば分けられる)があって、それが混在しながら成立してるんじゃなかろうか。