集団の規模が、一定の数の内に収まっているウチは… という前提はつくが、農耕は、大規模な集団の腹を満たすには適した生活スタイルだ
ヒトの集団は、農耕が本格化するのと歩調を合わせて規模を拡大してきた
が、一枚の田畑がまかなえる人口を、集団の規模が上回ると、ヒトは飢えなければならない
そのため耕地面積を拡張するか、集団の規模を適正規模に縮小する必要が生まれる
その方策として、たとえば古今東西を問わず広く行われてきた「間引き」という行為は、ヒトの営みの、その在りようのひとつだと言える
改革解放政策以降の中国における「一人っ子政策」なども、広義において「国策としての間引き」と言えなくも無い
そういう手段を集団が志向しない以上、集団はいたずらに規模を拡大せざるを得ず、その結果として増加した人口の腹を満たすために、田畑は無制限に拡大し続けなければならなくなる… という根本的な問題を常にはらむコトとなる
中国… 特に漢族は、古来より農耕する民族だった
農耕は常に土木治水灌漑を必要とする活動だから、彼らは中原に生えた木々を間断なく切り倒し、本来は湿潤だったはずの惑星の薄皮に鋤鍬を突き立て、掘り返してその田畑とした
そのありさまは、あたかも微生物が昼夜の区別無くおこなう発酵作用のようで、恐るべき勢いと情熱でその作業に没頭
同時に、ほじくり返した土をこねてあげて造ったレンガを積み、それを以って雨露寒風をしのぐための家屋となしたが、内陸性気候特有の異常なまでの冷気が屋内に侵入するコトを嫌ったため、その様相は窓や給排気口が極端に少なくなり、結果として薄暗くてホコリっぽい居住区となった↓
また、農耕による蓄財が仇となり、その財を狙って外敵の襲来する確率が高まった
それらから居住区を守るため、集団の生活区である中庭を囲んで四辺に家屋を隣接させあい、さらに家屋の外周には、これまた土をこねてつくったレンガの防塁をめぐらせて賊の侵入を防ぐ構造とした(風水や道教の影響もあるが、この建築様式を四合院と呼ぶ)↓
伐採と耕作によって掘り返された惑星の薄皮は、その湿潤を保持できなくなり、短期間に砂漠化してしまった
おかげで日本海側の諸地域は、ユーラシアからの西風に乗ってやってくる黄色い砂に悩まされるコトとなった
ひとたび砂漠化してしまった薄皮を再生する手段は現代においてもほぼ皆無であって、砂漠化は加速する一方なのだが(紙オムツや生理用ナプキンに使用される吸水性の高分子ポリマー粒子を土中に埋布して緑化をする試みはされているが、現状は焼け石に水状態)、それによって不都合を被ったのはこの列島に棲んで黄砂に悩まされる大和人(やまとんちゅう)だけではなく、モンゴル高原から中国西北辺までを拠点に蟠踞する遊牧騎馬民も同様だった
遊牧は、農耕とは別の生活スタイルを選択した人々の在りようだ
ヒツジやヤギという「食糧」を生育し、その「食糧」の群れの中にヒトが間借りをして暮らす… というのがその在りようの根幹だ
彼らの「食糧」であるヒツジを、ヒトが食えるようになるまで生育するためには、日々、大量の牧草を必要とする
たとえ広大な牧草地を得たとしても、ひとつとところに定住してしまえば、牧草はたちどころに食い尽くされてしまう
それゆえ、ひとつの牧草地を食い尽くす前に、別の牧草地を求め移動するという周回運動をせねばならない
季節季節に応じて適切な牧草地を巡るという周回運動をして、ふたたび同じ場所に戻って来る頃、牧草はまた繁茂しているから、集団の規模が異常に膨れ上がらない限り、この周回運動を無限にループするコトで生活を維持するコトが可能となる(農耕と違って砂漠化しないのは、畜類は牧草の根までを喰らうのではなく、表層の柔らかい葉の部分のみを喰らうため、一定期間をおけばまた繁茂できるからだ)
が、この周回運動の東端あたりには、農耕によって腹を満たすというスタイルを選択した漢族というやっかいな連中が大挙棲息していて、連中は牧草地だろうと丘陵地だろうと森林だろうと、トコロ構わずどんどん掘り返して田畑にしてしまうのだ
「ヒツジやヤギの大事な餌場を、なんてコトしやがるっ!」と言うのが、遊牧民どもの感情の素地には伝統的にあったのではないか
古来、北方騎馬民族と漢族とによって織り成された攻防は、そういう生活スタイルの齟齬から生じているといって過言ではなかろう
特に中国史上、中原を騎馬民族に制されてしまった時期というのは、騎馬民族側の人口規模が急速に拡大した時期とも重なっていて、凶作や旱魃などによって農耕では喰っていけなくなった小集団が、後追いで遊牧に参加し、急速に規模を拡大した時期でもある
結果、それまでコト足りていた牧草地が一気に不足する事態に陥り、広大な版図… つまりは牧草地が必要とされたがために、東は中国・朝鮮、西はトルコ・アナトリア辺りまでが遊牧騎馬民どもの駆る馬蹄に席捲されてしまった
農耕も遊牧も、どちらもヒトを食わせるためのシステムだ
それは生き永らえるために為された選択の結果であって、本来優劣をつけるべき筋合いのモノではない
しかし、ヒトを食わせるためのシステムとして、農耕と遊牧のどちらが選択されるべきであったか… という問いがなされれば、ワタシは迷うコトなく遊牧であったと答えるだろう
遊牧に甘んじている限り、貯蓄は生じ難い
仮に生じたとしても、それは極めて僅少であって、言ってみればリスが越冬のためにドングリの実を土中に埋める行為にも似ていて、貯蓄したところでスグに消費されてしまう程度のモノだと言える
そして、貯蓄が生じない以上、余剰の人口を生じるだけの能力はおのずと抑制され、それゆえヒトは分相応な生き方に収まっていられるのだ
過剰に増えすぎもしないし、減りすぎもせず、種としての適正規模を維持しながら、慎ましやかに生きるコトを知る「分を心得た生物」となったコトだろう
が、多くの者が「明日の不安」におびえ、さらにその不安を後進の者たちにまで伝播拡散させてしまう「農耕」というスタイルを選択した結果、ヒトという種は現在、70億に達するほどの人口過密に喘ぐコトとなってしまった
加えて、ひとたび発生した生命は、かつての様に容易く間引かれるコトも少なくなり、結果、生き永らえたヒトという種は更なる人口増加を加速させる
2050年には90億に達する試算がなされているそうだが、その全ての腹を満たすべき食糧をどのようにして獲得するのか… そのための何の方途も見出されてはいない
中国・アメリカ・ロシアなどといった、特定地域に広がる広大な穀倉地帯からアガってくる豊かな実りが、先物市場において極端な買占めを受け、一国の命脈が他国の戦略やバイヤーたちのさじ加減ひとつに握られてしまうという事態も、今後これまで以上の厳しさで訪れるコトだろう
古の漢族が無制限に地表を掘り返した顛末を知りながら、その愚の本質を見据えもせず、明日に怯え、今も変らず耕し続けているのがヒトだ
そういう愚かな「ヒト」という種が、それでも今後もこの惑星で存続してゆくためには、一度、適正規模に戻らねばなるまい
そのためには膨大な生命が飢えて死なねばなるまい
あなたも、あなたの子や孫も、あなたの兄弟も、その子や孫も、そしてワタシも、種としての適正規模を取り戻すために、いつか「間引かれるべき者」となるかもしれぬ
そういう運命に晒された時、ワレワレはそれを甘受せねばなるまい
ヒトという種の明日の存続のために、今日 間引かれる者に選ばれたという栄誉を、この上もない誇りと思わねばなるまい
明日の不安から逃れるために農耕を選択し、その恩恵に浴した者の末裔として、最期くらいは潔く間引かれねばなるまい
間引かれる際には、宗旨や信条の違いこそあろうが、火葬は御法度でなければなるまい
棺などには入れずに野晒しのままか、そうでなければ土葬や水葬、鳥葬などがよかろう
そうするコトで、農耕で手入れた「余剰の食糧と富貴」をすべて、きれいさっぱり禊ぐのだ
カタチ良く肥えたその肉体を、自然の循環の中に再帰させてやるのだ
そうした上で、ヒトという種が適正規模にまで減った時、それでもなお、もういちど農耕を選択するのだとしたら、今度こそヒトは完全に滅すべき存在となるのかもしれない
この惑星の上にいきづく、他の生命群のためにも、ヒトは滅ぶべきなのかもしれない
完全に滅んで、アミノのレベルまで分解され、新しい生命の源となるコトを志向するべきなのかもしれない
あと数十年後、明らかに地球規模の飢餓時代がやってくる
他の星をテラフォーミングし、全人類がこの惑星を脱するための時間的余裕もない
その時までにワレワレ選ばれし民「ヌティーク・セム・ホロゾンタ」は、大いなる神の計画に基づいて…(あれw?)
コメント
ヌティーク・セム・ホロゾンタ・・・・・・。
釣られるみたいで、少ししゃくに障るけど。
「ヌティーク・セム・ホロゾンタ 逸話①」
満州事変以来の厳しい弾圧下、一時は壊滅の危機に陥るホロゾンタであったが、主要構成員は、櫻井寺(元 大和五條代官所)をアジトとして、秘密裏に活動を継続していた。そして、人間兵器開発に成功する。それは、終戦に間に合わず、知る人ぞ知る特殊兵器として歴史の闇に長く埋もれていたが、1952年、市井の歴史研究家によって発見される。が、その実態は公に明らかになる直前、市井歴史研究家とともに、諜報機関の手により抹殺される。
※ミカドロイドは、その事実を元に作られた映 画であるというのが、定説である。
「ヌティーク・セム・ホロゾンタ 逸話②」
2002年に突然多摩川に現れたゴマフアザラシは、タマちゃんとして人気を博す。が、前述のヌティーク・セム・ホロゾンタの人間兵器が暴走でしたものであると、関係者の間では囁かれている。
「ヌティーク・セム・ホロゾンタ 逸話③」
唱歌『メダカの学校』は、1954年(昭和29年)には文部省芸術選奨文部大臣賞を受賞したが、ヌティーク・セム・ホロゾンタの海底基地のことをモデルにしている事実は、あまり知られていない。
「ヌティーク・セム・ホロゾンタ 逸話④」
1948年(昭和23年)に帝国銀行で発生した毒物殺人事件【通称 帝銀事件】の真相を、ひょんなことからGHQより入手することに成功したホロゾンタ。それを背景として、『表舞台には決して出ない』ことを条件に、それまでの執拗な公的機関からの排斥は弱まっていった。
「ヌティーク・セム・ホロゾンタ 逸話⑤」
天津教首班 木口小鳥の松原遊郭の馴染みは、「山濃」「原濃」。そう美人でもないこの姉妹を、木口はこよなく愛した。
明治維新後に山濃が語った所によると、小鳥は座敷に上がるたび、「手足を縛り、きつく叱ってくれ」と懇願したと言う。山濃が彼の言うようにし、きつく叱ると、「鬼畜いのぉ、鬼畜よのぉ」と、感涙にむせび泣いていたとのことである。現代で言う、『どS』という範疇であろう。
「ヌティーク・セム・ホロゾンタ 逸話⑥」
天津教首班 木口小鳥の狂歌の腕はいかほどのものであったかは、不明である。かの有名な「川本のアメフト勧誘・・・」の歌も、実は当時全盛を誇っていた堀滝太郎の作だとする説が有力である。堀滝太郎は、幕末の井原西鶴と謳われる程、経済に精通した狂歌師であった。日本永代蔵に並ぶと評される、母滝子との共作『お隣は払ってらっしゃいますよ』は、それを読んだエンゲルスが「東洋にもマルクスがいた」とつぶやいたと言う。
>ビバ☆メヒコさま
①および②に関して、我らがウェキペディアを編集しておきました
「解散指定」以降の辺りです
体力の回復を待って、③以降も追記してゆきますので、新たな事実が発見された際にはご一報ください
あるいは、直接編集に携わってくださっても嬉しいですけど{%わくわく(チカチカ)hdeco%}
「ヌティーク・セム・ホロゾンタ 逸話⑦」
木口小鳥を語る時、避けては通れない人物がいる。
同時代に生きた、同じく鳥の名を持つ英雄と言えば、三戸天狗党出身、芹沢鴨である。
芹沢に憧れて名を「小鳥」にしたことはよく知られた話である。しかし、本人は小鳥と書いたつもりではなく、「鶴」と書こうとして、その書の下手さ故に、小鳥となったのが真相である。その訂正さえ、その場で出来なかったのである。
最期を斬殺で終えるこの二人の決定的な違いは、胆の大きさであった。
「ヌティーク・セム・ホロゾンタ 逸話⑧」
逸話をここまで読まれた各位においては、もうすでに、ホロゾンタの決戦兵器をモデルにした、あのアニメのキャラクターにお気づきのことだろうと思う。
そう、ドラ○もんである。引き出しという異次元から、理不尽な暴力を受ける窮地の少年を救いに来るというコンセプトから、ホロゾンタの教義を探ろうとする研究者達の手がかりとなっている。
もちろん、その真偽を確かめようとすれば、全ての関係者は口を固く閉ざすのだ。
>ビバメヒコさま
ほろぞんた、ヴぉいてむ・れりく、きぐちことり、以上三件に関する記述を編集しましたw
ちなみに「ホロゾンタ」でググると、ちゃんとヴィキペディアを参照してくれるようです
すげーや、ぐーぐる{%顔文字ファイトhdeco%}
>ロビンちゃん
編集ありがとう。息が止まるくらい、笑いました。
「ヌティーク・セム・ホロゾンタ 真説」
「人は死んだら何になる?灰になる」の名言を残した長州脱藩僧が、小鳥の人間形成に大きな影響を与えていたことを知る者は少ない。
日本地理に精通していた脱藩僧による教授が、小鳥の知識全てと言っても過言ではない。小鳥は「沼津(ぬまず)」や「掛川(かけがわ)」というフレーズに対し、異常に興奮を覚えていたとの記録がある。
日本最初の新婚旅行は坂本龍馬とお龍であるが、日本で最初にラテン的(「Oh!latinate!」と西欧人に言わしめた人物が、この脱藩僧だったことは意外と知られていない。
小鳥の後ろに見え隠れする脱藩僧がホロゾンタの発展に大きく寄与したのは間違いない。しかし、その真相は、闇の中である。
脱藩僧の名は、音読で「いんにょうえ」としか伝わっていない。様々な漢字、例えば「飲尿重」「陰陽会」「院女餓」などが当てられると想定されるが、 記録にはない。
ヌティーク・セム・ホロゾンタ 列伝①」
牛魔王(ぎゅう・まおう)
西遊記の牛魔王とは別人である。後述する夫婦漫才師「アホとめぐみ」の師匠格。
戦後、この人がいなければ、ホロゾンタの空中分解は避けられなかっただろう。カリスマ的な人望・暴力・性衝動に裏打ちされた発言は、地下生活を送る末端ホロゾンタの結束を固めた。500円基金は、牛の力により軌道に乗ったと言い切れる。
広く布教活動に勤しむため、大手塾に就職した彼は、あたかも三国志の関羽が近所の子どもを集め四書五経を教えたように、徳と仁で人心を魅了したと言われる。
人格と激しい性衝動に則った行動の他、児戯にも似た事件を度々起こしている。
①どんな力にも屈せぬ『ブレーカー手上げ事 件』→火災発生
②創意工夫で何事も打開しようとする『いいちこ一升瓶ポット加熱事件』→ポット破壊
③いつもふざけてばかりいる男を奈良から最終電車で呼び出し、ただただ一晩正座させた『友情事件』
等々、枚挙にいとまがない。
カンボジアでの地雷除去作業ボランティア中に、爆死。カンボジア政府の『偉大な他国の友人20人』に筆頭で選ばれた。
「ヌティーク・セム・ホロゾンタ 列伝②」
通称・鯛谷(たいや)
本名の記録はない。昭和から平成への過渡期、バブルと呼ばれた時代に彗星のように現れ消える。牛魔王によって固められたホロゾンタの結束を、内部より瓦解させようと試みた。牛魔王に勝つとも劣らない激しい性衝動に全てを委ねた生活は、普段禁欲生活を送るホロゾンタ末端にとって、彼の説く世界はサンクチュアリのように映った。
最近解明されつつある『小走り隊』(もう一つのホロゾンタとも呼称される)と深い繋がりがあり、それを背景に、勢力拡大に成功したとも言う。しかし、時間と共に、性欲の爆弾・女人ピストン運動と揶揄された小走り隊でさえ、鯛谷の性衝動に応えることは出来なくなり、関係は自然消滅へと向かう。と、同時に、彼のホロゾンタ末端に対する支配力は弱まっていった。
ホロゾンタを抜けた後、一般人に溶け込んでいたが、観光で訪れた登別の熊牧場で熊運動場に落下し、あえない最期を遂げる。糞の中から発見された彼の遺物は、二本の歯ブラシだけだったと言う。享年 38歳。
「ヌティーク・セム・ホロゾンタ 列伝③」
川本(かわもと)
言わずと知れた「川本のアメフト勧誘・・」
の川本である。セムをアメフト勧誘し失敗した事実を、小鳥のような小心者に揶揄されるという失態を晒し、人生最大の屈辱を味わうが、基本的にはそつのない行動をする抜け目のない因幡脱藩浪士。
後述する夫婦漫才師「アホとめぐみ」のアホの実父。前述した長州脱藩僧とは同じ長屋に住むほどの仲であったと言うことが明らかになっている。小鳥とも親交が深かった。
友人宅でいくら深酒しても、必ず朝方には帰宅するという用心深さが、小鳥が新選組に捕縛された当日、同じ場所でいたにもかかわらず、奇跡的に難を逃れる奇跡を生んだ。
セムに対する恋慕の情は深く、夜な夜なセムの住む大津を眺め、爪を切りながら涙を流したという。
日銭を稼ぐために働いていた商店の余り弁当を大量に友人宅に持って帰る善行を積んだ。
基本的に地味なエピソードしか伝わってこない人物であるが、同時代を生きた多くの人から「ルシフェル」とも呼ばれたことから、ただ者ではない臭いは感じ取れよう。
「ヌティーク・セム・ホロゾンタ 列伝④」
セム
本名はセムQらしい。少しうつむきがちの姿勢からそう呼ばれたとの説が根強い。
Qは、魯迅『阿Q正伝』からの引用という説もあるが、無知蒙昧な愚民の典型である阿Qとは違って、彼女は清廉で聡明な女性であった。
見た目は地味であったが、黒目の大きい、瓜実顔の美人であったと伝えられる。
川本のアメフト勧誘を断るという英断により、歴史に名を刻むこととなる。
「ヌティーク・セム・ホロゾンタ 列伝⑤」
アホとめぐみ【芸名】
オオカミに育てられためぐみと、アナグマに育てられたアホが結成した漫才ユニット。アホは川本74歳時に愛人に生ませた妾腹。川本の死後、野生化し、24歳までアナグマに育てられるという奇異な運命で育つ。片言の日本語を駆使する漫才スタイルは、「しゃべくり漫才」に相対する存在として一世を風靡する。
昭和50年代の漫才ブーム直前にその芸を惜しまれつつ解散。理由は、めぐみサイドの我が儘であったと関係者は口を揃える。
オオカミに育てられためぐみは、人語を操れなかった。アホの片言と、意味不明のめぐみの発言で成立する奇妙な漫才スタイルは、知識人を驚愕させる。昭和後期に一瞬瞬いた『コボルスミ11』のスタイルは、それを踏襲したものであったと言われるが、横山やすしの逆鱗に触れ、解散に追い込まれたのは記憶に新しい。
めぐみの解散後は、不明。アホは、平成初頭、鯛谷により粛正されたらしい。それまでも、アホのバイク(カワサキ ninja)のブレーキオイルが抜かれたりと、彼の周りで不可解な事件が頻発していたという。
解散後は、牛魔王に師事するが、フロド・バギンズとスメアゴルの様な、様々な重い事情を抱えた師弟関係だったと、内情を知る者は言う。牛の爆死についても、その関連が取りざたされたらしいが、記録は皆無である。
「ヌティーク・セム・ホロゾンタ 列伝⑥」
チャー・コ(ちゃー・こ)
『アホとめぐみ』のアホが、最愛の人めぐみに出会うまで片思いだった芸子。今で言う『つんデレ』の原型で、厳しく叱った後に優しく抱擁という接客スタイルは、多くの男性を虜にした。
アホの告白を、セム同様むげに断ったが、小鳥が歌に詠まなかったため、歴史の闇に消えた。
「ヌティーク・セム・ホロゾンタ 列伝⑦」
森濃伸太郎(もりのう しんたろう)
ホロゾンタ技術開発局第2科・科長(戦備担当)であり、ホロゾンタ最高位の導師でもある。
教団一の武闘派でありつつ、温厚で朴訥で善良そのもの、いわば宮沢賢治的とでも言いうるような顔も併せ持つ。
幼少期から、『近江の鉈』として地元では恐れられ、巧みな柔道技で邪魔者を平服させていった。
裕福な豪農の長男として育ち、地域に社会教育の概念を定着させた。
兵器開発の特異な才能を開花させたのは、消防団所有の消防車を修理した時であったという。修理前は12メートルの射出しかできないホースが、修理後、339メートルという驚異的な数字を叩き出した。その場にいた全ての人が、その水圧で跳ねとばされ尻餅を突いたという。
水圧を自由に操る魔術師、とホロゾンタ内では呼ばれ、その能力は当然、海中兵器にも応用されるのは必然である。
科長になってからも、時折部下の労を労うため、自らギターを爪弾いたという。
人間魚雷回天の技術を盗み出すために、志願して予科練に入り、第一回出陣で、ウルシー環礁でアメリカ重巡洋艦を撃沈させ殉職。その理由は不明である。
「ヌティーク・セム・ホロゾンタ 列伝⑧」
きのやまさを①
小鳥亡き後、ホロゾンタを引継ぎ、幕末から昭和初期にかけての約80年間、大魔道師として教団の手綱を握った。
江戸後期、幕軍として宇都宮城の戦い、上野戦争、会津戦争、函館戦争などに参加し、全て敗走したが、奇跡的に無傷で生き延びる。その神業にも近い生命維持力が、口伝に民衆に広がり、信仰に近い存在となる。その力を頼りに、当時小鳥の死によって崩壊の危機にあったホロゾンタが、首班小鳥斬首の恨みをかなぐり捨てて、首班となることを願い出たのだった。
当時、『秘湯』の号で、俳諧師としての道を選ぼうとしていたまさをは、数分迷った末、首を縦に振ったという。
当時流行した土産、観光地の名称を染め抜いた提灯や将棋の駒形の通行手形は、まさをの発案である。その収入は、ホロゾンタの経済的危機を救った。
その奇跡的生命維持力は首班となってからもいかんなく発揮され、大逆事件で逮捕され拷問を開始される直前、拷問担当者が次々と心臓発作を起すという怪奇現象に見舞われ、拷問は無期延期となった。また、逮捕状に判を押した裁判官までが、脳梗塞で倒れるという事態に至り、まさをは無罪放免となった。
無罪放免となった日を、ホロゾンタでは『チィーレ・チィーレ」(支配からの乖離・自由との邂逅、の意)として、記念日に制定されている。
きのやまさを②
大正デモクラシー下、様々な振興宗教が立つ中、ホロゾンタも他の教団同様、迫害にさらされる。無用な対立を嫌い、まさをは教団を解散したように見せかけ、秘密結社として再生する。政府に対して、傀儡教団として立ち上げたのが『近江真理教』であり、そこから森膿という大発明家が後世生まれるとは、まさをも予知できなかったであろう。
本来の彼の願いであった、俳諧師として生きることは、俳諧師という仕事が消滅したため果たせなかった。しかし、明星派の浪漫主義俳人であった与謝野鉄幹が、まさを自身であるという説も、ここ数年、緻密なデータベースを用いた歌風の研究によって、余りの一致点の多さから、定説となりつつある。
まさをの癖は、落書きであった。文書の空白部分に、それは多く残されている。そのほとんどは、拳闘をする人物画である。
まさをにとって、西欧から伝わった自転車は、現実から自らを一時的にせよ素早く遠ざけてくれるものとして、唯一無二の存在であったという。
昭和に入り、強い生命維持力を誇ったまさをも、寄る年波には勝てなかった。次第に弱っていくとともに、頑固な部分のみが突出し、ホロゾンタをミスリードすることも増えた。
引退を周囲から示唆された時、まさをの生命維持力は0となって、自然死であるかのような自殺を遂げた。享年 83歳。
「ヌティーク・セム・ホロゾンタ 逸話⑨」
バブル期後半、マスクマンを中心としたプロレス団体の経営に乗り出したホロゾンタであったが、実態は、顔を出せない非合法移民のロンダリングであったと、公安関係者は語る。
「ヌティーク・セム・ホロゾンタ 逸話⑪」
イギリス民謡を元にした童謡『大きな栗の木の下で』は、ホロゾンタの謎を解く暗号が隠されている、と言う所までは判明したが、内容については全く分かっていない。が、GHQに対する挑発の歌というのが関係者の結論である。
「ヌティーク・セム・ホロゾンタ 逸話⑫」
木口小鳥襲撃の夜、京都三条六角上料亭『膿蛇尼』に同席していたのは、川本である。小鳥は舶来のワインを飲み、川本は日本酒であった。
丑の刻を回った頃、川本がいつものように退席するやいなや、新選組がなだれ込んで小鳥を捕縛した。そのため、一時は川本に裏切りの嫌疑がかかる。川本には小鳥に対する十分な殺人動機があった。無論、あの歌である。
しかし、実際裏で糸を引いていたのは、いんにょうえである。小鳥の首班としての行動の浅薄さを見限り、川本にスライドさせようと試みたが、川本がその直後に謎の失踪を遂げたことにより、計画は頓挫する。
その後、彗星のように現れるのが、きのやまさをであった。
「ヌティーク・セム・ホロゾンタ 逸話⑬」
小鳥が市中引き回しの折、彼が贔屓にしていた芸姑、山濃と原濃は、その後の咎も恐れず二人して小鳥の前に走り寄り、山濃が金平糖を口移しにした。原濃の「美味しどすか!?」の絶叫に対し、小鳥は一言「おいちい」と返したと言う。
「ヌティーク・セム・ホロゾンタ 逸話⑭」
小鳥検死記録
一、左肩に五寸大に『ぽち』といふ刺青あり。 生前飼ひし犬の名と言ふ。
一、土壇場で、終始抵抗し、制御するに能わ ず。よって、刺殺しける後、斬首す。
一、辞世の句を残しけり。以下に記す。
『発情の 後の心に比ぶれば
昔はまらを 触らざりける』一、そのまら、大なり。形容擂り粉木に似た り。
一、斬首せし係への因縁あるべからず。作法通 り、首落としたる後、まぶたを十字に切り ける。
以上が、2011年に偶然発見された小鳥の検死記録である。惜しむらくは、半分以上が消失していることで、上記の内容は、ほんの一部分である。
しかし、辞世の句から推察すると、剛胆な部分も垣間見られることから、今後の更なる小鳥研究が待たれる所である。
「ヌティーク・セム・ホロゾンタ 列伝⑨」
環陀夛(かんだた)
織田信長さえ手を出すことを躊躇ったとされる寺内町の僧侶。
ホロゾンタとの関係は薄いが、小鳥と同時代を生きた快僧。
芥川龍之介の蜘蛛の糸のモデルと言われる。
「ヌティーク・セム・ホロゾンタ 正史」
1900年、義和団の乱の標的にされ弾圧されていたホロゾンタが、その鎮圧に抗議するという奇妙な行動は、歴史家の間でも意見の分かれる所である。肉を切らせて骨も切らせる、という自虐的自爆行為は、その後、インド独立の父ガンディーに無抵抗主義という形で引き継がれる。
ある歴史家は、「革靴にピストルという、義和団の格好良さのみに目を奪われた愚かな抗議」と言うし、また別の歴史家は「二世代先を行く抵抗運動であった」と評価する。
「単に、騒ぎたかっただけ」というのが真相ならば、死者2500人を出し壊滅的なダメージを受けた清国ホロゾンタは、余りに軽はずみと言うべきであろう。
「ヌティーク・セム・ホロゾンタ 伝承」
大和五條、櫻井時のある本陣交差点付近では、夏の満月の夜、蛇の脱皮がそこかしこで見られる。それは、主流になり得なかったホロゾンタの執念が蛇に乗り移った証拠だ、と古老は言う。
ホロゾンタが表舞台から姿を消した日、ひどく強い辻風が吹いていたと言う。今でも、風の強い日には、「ホロの人たちが消えそうな日だなぁ」などと言い、外出を恐れる人もいる。
「ヌティーク・セム・ホロゾンタ 伝承」
ホロゾンタへの国家的迫害は、昭和初期に過酷を極めた。末端ホロゾンタは、自らの国家への忠誠を証明するため、進んで出征し、死地に赴くのだった。
ホロゾンタの戦中の悲しい歴史を映画化したのが『キャタピラー』である。
「ヌティーク・セム・ホロゾンタ 列伝⑩」
きのやまさを③
青年期後半を動乱の京都で過ごした彼は、様々な事件と遭遇した。その一つが、足利尊氏木像梟首事件である。斬られた首を見て、彼の魂はその非道な行為に対し怒りに打ち震えたと言う。当然彼の気持ちは、佐幕派に固まっていく。
京に出来た最初の牛鍋屋『山重』にて、糊口を凌ぐため短い期間ではあるが働いていたことがあった。そこで、落ちた肉を洗って客に出すという非道を店主に強いられた。その店主が倒幕派だったことが、まさをの佐幕の気持ちをさらに強くした。
まさをは、故郷で分かれてきた幼馴染の女性が、吉原遊郭に売られていることを伝え聞いた。取るものも手につかず、吉原に向かいその真相を確かめると、果たして、それは事実であった。しかも、すでに自害を遂げていたのである。それを聞いたまさをは、置屋店主(九魅屋)を一刀両断にし、失踪したのだった。それ以降は、すでに記述にあるとおりである。
「ヌティーク・セム・ホロゾンタ 伝承」
昭和後期から平成初頭にかけて、ホロゾンタ末端の心の支えとなった歌い手は、浜田省吾である。浜田の歌う「MONEY」は、資本主義国家に対するアンチテーゼとして、信徒たちに歌い継がれた。
決して意見を曲げぬ牛魔王でさえ、浜田の歌には骨抜きにされていたらしい。弟子であるアホを懲らしめる時、長さ2メートル、重さ39キロの紫檀削り出しの精神注入棒を用いた。その棒を『喪野黒有無霊棒』と言い、曲がりきった精神を糾したと言う。
「ヌティーク・セム・ホロゾンタ ナウ」
ホロゾンタの根本道場のある十津川郷では、ここ数年意気盛んな若者達によって、上洛を目指す動きが活発化していた。それを察知した公安の手により、十津川がゲリラ豪雨という隠れ蓑による雨水攻撃で壊滅に追い込まれた(新聞報道による)のは記憶に新しい所である。
しかし、このような大規模な雨水を用いた破壊工作を行えるのは、世界広しと言えども、森濃博士をおいて他にいない。それとも、『マスター オブ ウォータープレッシャー(MOWP=モウプ)』の研究成果が現代に誰かの手によって蘇ったのか。
731部隊の石井四郎の如く、森濃伸太郎は今も生きているのだろうか。また、何故彼が、ホロゾンタの攻撃に加わったのだろうか。
ホロゾンタ末端に何かが起こっていることだけは間違いないようだ。