およそ1万年前に終了した最終氷期以降、日本の国土は温暖湿潤気候帯に分類されて雨量が多くなった
加えて、赤道からも極点からも程々に離れているがために四季の移ろいに晒され、また、大陸とも切り離されるコトで内陸性気候特有の乾燥や寒冷からも守られた
こうした気候・地勢の下では広葉樹・針葉樹の両方が生育可能であるが、適性としては広葉樹林の方が優れているためその勢力を拡大しやすい
競争力がそれほどでもなく、乾燥・寒冷に強い針葉樹林は、結果としてその植生域を寒冷地や高地へと棲み分けていくコトとなった
このため、国土の平野域には広葉樹林が拡がりやすくなった
広葉樹林は常緑と落葉の2つに大別される
常緑樹とは、その名の通り四季を通じて常に葉をまとった樹木を言い、シイやカシなどがそれにあたる(ちなみに、これらの樹々は全く落葉しないのではなくて、初夏の頃に古い葉を落として葉の入れ替えをする)
これらの樹々は、四方に拡げた枝に大きな厚手の葉をたくさん生やし、その葉に降りそそぐ日の光を受けるコトで生育する
樹々が日光のほとんどを受け止めてしまうため、これらの生育する域には鬱蒼とした暗い森が広がり、その根元には夏に落とした葉が腐ってできた腐葉土が満ち、季節になればその腐葉土の上に木の実が豊富に転がるコトとなる
殊に、シイの実(どんぐりの一種ね)は炭水化物をその主成分としており、栄養価も高いため鳥や獣、ヒトの腹を満たす上で非常に優れた食材となった
狩猟・漁労・採集といった手段を日々の生業としていた頃のヒトは、有史以前からずっと河川の付近に棲んで生活用水を得ていた
それらのうち、チカラのある者は狩りに出かけ、そこまでのチカラのない者は川端で貝や魚を獲り、コドモや老人といった膂力に乏しい者は樹林に分け入って、木の実を集めたりしていたことだろう
木の実がなくなるコトはほぼ皆無であり、なおかつ保存・携行にも適する
猟果や釣果が得られぬ時にも重宝した食材であったコトだろう
生のまま皮をむいて食べても良し、ゆでて食せば栗の実の様にホクホクとした食感も楽しめたであろう
皮をむいた実を石ですりつぶし、粉にしたものを水と合わせてこねれば、簡易のパン生地となったかもしれない
やがてこれらの樹々は、伐採されて家屋の柱材や道具としても利用されるようになった
小枝は、よく乾燥させるコトで薪としても利用された
このようにして少しずつ常緑樹林の辺縁は伐採され、鬱蒼とした森の土壌にも陽光が差し込むコトが多くなっていった
ヒトの手によって伐採がすすみ、陽光が差し込むようになった土壌には、ナラ・クリ・クヌギといった落葉広葉樹(生育に不適な季節になると全ての葉を落とす)が生育しやすくなり、いわゆる雑木林となった
こういった雑木林を二次林と呼ぶが(これ以前の常緑樹林を一次林と呼ぶ)、その最たるモノが日本の原風景とも言える里山だ
ヒトがその生活圏を拡大するにつれ、このようにして常緑樹林は伐採されてゆき、徐々にその規模を狭めていった
ヒトは左様にして未踏の樹林を開墾し、家屋を建て、自らの生活拠点を拡大していった
水稲耕作技術が輸入されて以降は開墾した土地を均して耕し、そこに水を引いて稲・雑穀を植えた
「拓く」とは、そのような土木・治水・灌漑・農耕といった活動の総称を指す
上古、この国のヒトビトは己の住まう大地を指して、豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)と美称した
瀬の高い葦に一面覆われた広大な湿地と、それを開拓することによって豊富な瑞穂(新鮮な稲穂=米)を収穫できる、まことにめでたい土地… というような意味だ
そのような美称とはうらはらに、畿内とその周辺にこの国の中枢がようやく定まった後も、中央政権に服属しないままの地方豪族が各地には独立割拠しており、ヤマトと自称する勢力が領有する支配域は現在とは比較にならないほど狭小だった
ヤマトは、各地に点在割拠するまつろわぬ者どもを平定して帰順せしめるという皇民化作業を「征夷」と呼号し、それらの勢力を、ひとつひとつ丁寧にすり潰してゆくコトに熱中した
結果としてこれに服さぬ夷どもは、国土の辺縁へと次第に追いやられてゆくコトとなった
同時に、彼ら駆逐された夷どもの故地は中央政権へと接収され、新たな国土は大和朝廷(もっと精密に言えば天皇)の所有となっていった
そのようにしてヤマトが開墾済みの敵地を得てゆく一方で、この国土の大部分は依然として手付かずのままの未開状態であり、葦に覆われた湿地群と広葉樹林がそのほとんどを占めていた
中央政権は、左様にしてその領有支配域の拡大を果たしていったが、領有したところでそれを活用せねばただの地べたでしかない
それゆえ、これを耕して生産力とせねばならず、そのための人員も必要とした
そこで考案されたのが班田収受というシステムで、6年ごとに戸籍を作成して労働人口を精密に査定した
更に耕作可能年齢に達した民にその土地(口分田)を貸与することとした
貸与した土地には耕作の義務が生じ、そこからアガってくる収穫は租と呼ばれる物納税となった(税にはこれ以外に生産工芸品を納める調と労役を行う庸がある)
この法の、もっとも特徴的な点は「耕作民が死ぬと貸与された土地を再び御上に返上せねばならない」という部分に尽きる
つまり、土地を耕しその収穫の何割かを得るコトで民は死なない程度には生きられるが、基本的には御上を潤わせるために使役される存在でしかない、というコトだ
そういう意味では、この当時、この国の土地と人民は公有のものであったと言える(異説あり)
この後、人口増加によって食糧の増産と生産力の強化が急務となった大和政権は、なおいっそうの新たな耕作地を必要とするコトとなった
この需要に応えるため、これまで未開のままであった葦茂る湿地を拓き、瑞穂の生る美田とせねばならなかった
この開墾作業を墾田と呼んだが、土木工機のない当時、膨大な人員を投入して尽力せねば為しがたい難事業だった
生い茂る樹林を伐採し、大地に深く張った樹々の根を掘り起こす
巨岩奇石を除き、土地を平たく均す
さらにソコに微妙な高低差をつけて灌漑を施し、河川湿地から水を引く
種籾をまき、堆肥をまき、日々の世話をこまめにし、有為転変する天候や自然災害に振り回されながら、ようやくわずかな稲穂が実を結ぶのだ
この難事業を促進するために、御上のとった政策が三世一身法と呼ばれる
これは「開墾した当人から数えて三代目までの者(つまり孫の代ね)に、その墾田の私有を認める」という施策だった
己の拓いた土地を「私有できる」というのはこの当時かなり画期的なシステムで、「努めよ 励めよ 拓けば拓いた分だけ孫子の代まで報われるのだぞ」という類の「幻想にも似たスローガン」として、御上は声高らかに民草を励して開墾の振興を図ったコトだろう
しかしながらこの法の下では、三代まで私有された墾田は、三代目が没すると再び公に返上せねばならなかった
ちょっと考えれば解るとおり、私有とは名ばかりの施策であって、口分田を返却するまでの猶予期間が孫の代までわずかに延長されただけだという点で、単なるその場しのぎでしかなかった
血と汗を滴らせて過酷な環境を開墾するコトに尽力し、ようやく拓いたその土地が、結局のところ公によって接収されてしまうという事態を目の当たりにした時、墾田に直接たずさわって尽力した者ほどそのバカバカしさを痛感したコトだろう
この馬鹿げたウラに誰もが気づいてしまった結果、三世一身法の発布後20年ほどで、開墾事業主・耕作民ともに意欲を失い、この法は験力を失くしてしまった
しかし、この馬鹿馬鹿しいほどの虚無感が、やがて新しい発想を生む土壌ともなった
御上は、「墾田した土地を、開墾者が永年にわたって私有して良い」という新たなお触れ(墾田永年私財法)を出すコトによって、無気力になっていた開墾事業主・耕作民の賦活化を図ったのだ
こうして私有化されるようになった墾田を荘園と呼ぶ
開墾事業を行うにはかなりの人員を必要とするため、この事業主は大規模な資本を有する中央貴族・大寺社・地方の富豪(かつての豪族層)だった
しかし、実際に手を汚して開墾作業を行い、農地を維持し、種籾を撒き、作物を育み、収穫するのは事業主に使役される民草だった
土建屋と、ソレにかつがれた議員… それらがたがいに癒着して大口の公共事業を良いように落札し、御上から下賜された公金によって肉体労働者を募り、それらを使役し、橋や道路や建築物を造る
開発に名を借りた利権の構図に、ドコかしら似ていなくもない(記事をアゲてから読み直すと、ココだけ浮いてるね てなワケで取り消し線を入れまするょ)
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