しょうがない
ワタシは、女ではないのだからしょうがない
ワタシは、ウソつきなのだからしょうがない
ワタシは、あの方の御心を深く傷つけたのだからしょうがない
しょうがない
しょうがないのだ
あの時、ワタシがあの方にとっての一番だったとしても、もはや仕方のないコトなのだ
諦めなければダメなのだ
そのコトに関しては、もう諦めなければダメなのだ
報われるコトなど、全ていっさい諦めなければダメなのだ
一番も、二番も、ただのなかよしも、ぜんぶ諦めなければダメなのだ
何かを望むから、報われないとココロが拗ねるのだ
望まなければ良いのだ
望まなければ、呪いのコトバも生まれないのだ
望むまい
願うまい
諦めなければならない
諦めた上で、この身を捧げよう
誰の役にも、何の役にも立たないこの身体を、それでも何かに捧げよう
親も、兄弟も、友人も、職も、収入も、健康も、若さも、虚しく過ぎていってしまった時間も、すべて自分で覚悟した上で失ったのだ
それでも良いと、捧げたのだ
捧げたモノに対する対価や報酬を、けっして求めてはいけないのだ
しょうがないのだ
しょうがない
<中島みゆき:りばいばる>
コメント
痛いね。
辛いね。
楽に、どうか楽にして
気持ちを楽なところに漂わせてください・・
ふら~っと、
ぼーっと
素敵な感性をお持ちですもの
ここでは自由に楽に、しあわせに過ごすの。
ここでは諦めなくてもいい
足掻いて
足掻いて
足掻いて
新居にラッブ音が鳴り響くほどに
執念の波動を撒き散らすの。
{%火webry%}
どうか楽に・・心配。
>ひみつのアッコちゃんサマ
はじめまして、コニチワです
このような、半ば怨霊化しつつある中年オカマの記事にも怖れるコトなくコメントくださいまして、まことにありがとうございます
できれば怨霊とか地縛霊とか蛇女に堕天してしまう前に、この呪わしい身体から解き放たれ、きれいさっぱり跡形もなく消え果てしまいたいものだと、常々思っています
んでも、なかなかどうして、未練がましくてダメですね
今日もどうやら無事生き永らえてしまったようです
生き永らえてしまうと、その分だけ業が積み重なってしまって、いよいよ怨霊に近づいてしまうのでしょう
あの方を呪って余生を送る様な、そんなモノには堕ちたくないものです
ワタシはあの方のためだけに、この無意味な身体と心を捧げたのですから
でも本当は、なかば堕天してしまいかけているこの心を、なんとか律するために、この記事のようなうわ言を記述して、自分に対して念じているだけなのかもしれません
自分でも、もはや判然としません
我がコトながら、全くままならないものですね
ままならんものが人生だと悟る頃に、人は死を迎えるのだろうな。この六日に親父が死んだのだが、判然としない感情が、心に渦巻いています。
親父とは俺にとってなんだったのか。親父にとって俺は何だったのか。心の交流を持たないもの同士の血縁は、あっけなく幕を閉じた。釈然としない感情だけを残して。
>ビバ☆メヒコさま
この場を借りて、謹んでお悔やみ申し上げます
己が心中のコトでさえ「ままならない」と感ぜられるのはきっと、「こうありたい」とか「こうあってほしい」と願う心のせいですよね
この記事にも短く綴りましたが、何事かを願い、望んだりするから、それが叶えられない時、心が拗ねるのでしょう
拗ねた心をどうにかしてなだめるために、ワレワレは、心理学における代償とか合理化とかの防衛機制をおこなうのでしょう
防衛機制をおこなっている時点で、己が心の制御に四苦八苦している状態なワケで、つまり心が「自侭」になっていないのですよね
心を、一体どのように処置してやれば、完全に理性の制御下に置くコトが可能なのか・・・ ワタシにはいまだ一向に分からないままなのですケド、「ままにならぬ」とはつまり、心というケダモノを馴致せしめるコトの困難さを表現するコトバなのだと思うのです
↑のつづきです
まして、既にコトが完了してしまった過去の事柄に対する願い・望み・祈りというのは、往々にして果たされないまま放置されてしまっているコトばかりで、なおかつ、そういった願いや望みをいまさら完遂させてやるコトも叶わないがために、常に心は疼かされ続け、その制御には常に難渋させられ続け、それゆえに「ままならない」コトこの上ないシロモノとなるのかもしれません
あのヒトにこうあってほしかった、とか
あのヒトとこう係わり合いたかった、とか
あのヒトにこうしてやりたかった、とか
全部、後悔ですよね
そして、そうではなかったが故に
なんであのヒトはああだったんだろう、とか
なんであのヒトとはこのようにしか係わり合えなかったんだろう、とか
なんであのヒトにこうしてやれなかったんだろう、と思い返さざるをえない
願わなければ、望まなければ、こんな難儀なぞしなくても済むのでしょうケド、心とか感情ってヤツは、往々にして理性の上に立って理性をすら制御しようとしますから、まったくもってやっかい極まります
気性が荒くて扱いに困る牡馬は去勢して馴らすのだそうですケド、ワレワレのココロというケダモノは、一体どうすれば去勢して大人しくさせられるんでしょうね
我が身中にうずくまり、低く唸りを上げているコイツの扱いに、ワタシもさすがに音を上げざるを得ない現状です
先月父の四十九日法要に納骨のために墓の前石をずらした。恐ろしく重く最後にドスンと落としてしまった、お坊さんの前で儀式もへったくれもないなって思いながら納骨すべき墓の根本にある小さな空間を覗いた何個かすでに小さな骨壺があった、一番左側に父の骨壺を置く。「こんなの誰がどれかこの瞬間覗いてる人しかわかんないじゃない」と思いながら…
そして、こんな狭くて暗いい空間に最後に入らなきゃいけないのかと考えてたらわたしがよくブログとかでやっちゃてるんだけど生きてる内にそんなに呪縛的な言葉を撒き散らしながら過ごすもんじゃないな、そんな臭い漂わしてこんな狭いとこ入ったらそれこそ来世いまで苦しみそうだなって…
>ひみつのアッコちゃんサマ
最近、年齢のせいなのか、シャワーを浴びていると、明らかに脳内のドコかの血管がやばいコトになってるという感覚に襲われるコトが多いのです
「あぁ まかり間違えば、このまま素っ裸で身繕いも死化粧もできぬまま、この場所で逝っちまうんだなぁ…」などと、一寸先の己のありさまを危ぶむコトがよくあります
特にシャンプーしている時など、「このまま目を開けぬまま逝っちまうコトもあるんだろうか…」などと考え出してしまい、考え出すと急に死ぬコトが恐ろしくなり、ハッと目を開けてしまって流れてきたシャンプーの激痛に苦悩したりするコトもしばしばです
あるいは、「シャワー出しっぱなしで、数ヶ月浴室に横たわり、近所のヒトが大屋に腐臭の苦情を申し立てて、ようやく蛆だの蟲だのにたかられた屍体として発見されるんだろうなぁ…」と、その情景を思い浮かべたりもします
そうして引き取り手もない、この腐乱した中年オカマの骸は、その後どのような手順を経て、いったいドコに辿り着くのだろうかと考える暮夜、還るべき場所があるというコトが、とても羨ましいコトに思われてきます
たとえ冷たく暗く狭い場所であれ、いずれ己が入るべき墓があるのは幸いなコトだと思うのです
ただ、願わくば、やがて訪れるであろう最期の一瞬に、誰かや何かを呪って終わりたくはないものですね(さすがに感謝するのはむつかしそうです^^;)
その一点だけを肝に銘じて、今日もシャワーを浴びました
アッコちゃんサマもシャワー後に湯冷めして風邪など召されませぬよう、御自愛くださいマセ
還るべき場所・迎えてくれるヒトビトがあるという幸いを、どうか大事にしてください
はは、シャンプーの時にそんな思いに陥るなんて・・んで思わず目開けてシャンプー液ごときにのた打ち回るなんて、ちょっと笑っちゃうわよ、ロビンさま。{%顔文字喜びhdeco%}
お悔やみのお言葉、ありがとう。
死を遠くに感じていた頃は、『愛車を棺桶代わりに、爆破してもらうんじゃ』とか『ヒグマに食べられて消化されて糞になる』などとうそぶいていたのだが、あと数十年、ひょっとすると数年後に死んでしまうかも知れない現実感のある年齢になってくると、やや真剣に考えてしまうよね。親が死ぬって事は、順番的に次は俺だからね。嫌だねぇ。
シャワーの時に、それは意識しなかったなぁ。そもそも、俺は目をつぶっていないのかも。頭を洗うと言っても、坊主だしなぁ。
リバイバル、懐かしかったぜ。
>誰に言うともなく…
「しょうがない」というコトバを、これまで自分は何度使い、このさき死ぬまでに、いったい何度使うんだろうなぁと考えると、ホント悔しくなります
しょうがないとは、受け要れ難いモノを受け入れねばならないというコト
受け要れ難いコトとはつまり、願わざるコト・本意ではないコト
願い望むから受け要れ難いコトが生じ、受け要れ難いコトが生じるから受け要れざるを得ない
願わねば、受け要れ難いコトも生じず、受け要れ難いコトが生じぬから受け要れる必要もない
と、アタマでは解かっていても、それってつまり「生きたい」と願うココロすらも放棄せねば到達かなわない、解脱者のみに許された境地
煩悩に振りまわされ、地べたを這いずり、息も絶え絶えに喘ぎながら、その日その時を辛うじて乗り切っているワレワレ衆生には、到底至り難い求道のセカイです
懊悩し、煩悶し、苦闘して、それでもなんとか生き永らえているからこそ、そうそう簡単に死にたくはないものですよね
そうゆう日々の苦闘が少しずつ凝って、やがて「業」ってカタチに凝結します
無理してがんばって今日もなんとか生き永らえたからこそ、「こんちくしょう こんなトコで死んでたまるか」と、妙にチカラも入りますよね
そうやってがんばるから愛も生じちゃうワケで、その愛に対象が応えてくれないと憎悪や哀しみが生じてしまったりします
そうやって、死にたくないから願いが生じ、願いが生じるから受け入れ難いコトが生じ、生じるから…(以下、無限循環)
↓へつづく
↑のつづきです
つまり、生まれてこなければ生きたいとも願わなかったのであって、生きたいと願うから苦しいのであって、せっかく苦しい思いまでしてなんとか生きているというのに、それにもかかわらず、この世に生まれ出た生命は結局のところゼッタイに死ななければならないから、まったくもって最悪に悔しいのです
「分不相応な望みを抱くから、そうやって無駄に苦しむのだょ」と言うヒトもいるケド、分相応な望みのしか持たずに苦悩なく生きるとしたら、それはつまり、思考を必要としない微生物や昆虫と同等に生きるというコト
反射によって生存行動を決定するだけの存在になるというコト
我欲を棄て、それでも生きるという手法を突き詰めていくと、なんだかそんなカンジに行き着いちゃうような気がするのです
そうやって、ムシの様に生きムシの様に死んでいくコトがイヤなら、生きる上で苦悩せざるを得ず、そうやって苦労して生きた末、結局のところ訪れる死には抗いきれません
抗いきれぬ以上、今際の際には「もっと生きたい」にもかかわらず「しょうがない」と死を受け要れざるを得ません
そして、最期の最期に「しょうがない」と一言でも発してしまった時点で、その一生は後悔として完結するように、はじめから仕組まれている、というトコロが最悪にイジワルです
造物主サマというのが本当にいるのだとしたら、そいつは多分、かなり念の入ったタイプのイジワルなヤツだと思うのです
将棋で卑怯な待ち駒をするようなタイプだと思うのです
手に在った飛車を眉間へたたきつけてやりたい衝動すら覚えます
更につづきですw
「この世に生まれて来るべきではなかった」とか、「この世に誰かを生み出すべきではない」とか、そのようにワタシが思うのは、そうゆういきさつからです
「悔しい・・・」とか、「残念だ・・・」とか、「しょうがない・・・」とか、そうゆうコトバで全てを受け要れて終わらなければならぬ生というヤツを、ワタシは今も許せないままです
しようがないことを突き詰めたらそういうことになるのかなぁ。逆に言えば、「しようがあること」など、本当に少ないな。原田ともよとか葉月玲於奈と結婚したくても出来なかったし、世界の征服者になれそうもない。そういう才を俺は持ち得ていなかったのだと「しようがない」と思うしかないのだろうな。そ
れでも、ある程度の才があったので、今こうして、仕事に就き、寒さに凍えないささやかで幸せな生活を送れているわけさ。
欲と才のバランスが取れなくなったら、究極として、ネットの住人のいわゆる『口だけ番長』などという存在になるのだろうな。リア充なんて言葉存在することそのものが狂ってるものね。あんたらの生はにあるのか?って。
しようがないことが多いからこそ、宗教が存在し得るのだろう。自分では納得出来ない様々な現象に整合性を与えてくれるのが宗教だな。業。それが「しょうがない」の正体なのだろうね。