信玄・謙信といった武将がまだまだ旺盛で、その領土拡張に勤しんでいた元亀~天正の頃、四国土佐には長宗我部氏という土豪があった
長宗我部氏の名を世に広く知らしめたのは、この時代を生きた長宗我部元親という名の若者だった
当時、土佐は七郡に割拠して互いの水利・田畑を争っていたが、長宗我部氏もそれらの中のひとつでしかなかった
元親の初陣は、当時としては遅く21の時(1560年)
その後、土豪劣紳ひしめく土佐を平定し、その勢いを駆って阿波・讃岐・伊予へと侵攻、これらを苛烈に攻めた
闘いのさなか、26の時には長男が生まれた(1565年)
田舎生まれの土豪でしかない元親は、信親と名付けたその息子に対し、武技も芸事も教養も、当代一流の師範どもをわざわざ京から招いて当てがった
信親はそれらをよく修め、人品 涼やかに育まれ、臣下の人望も厚い優れた武将となって良き働きをなした
四国全土をほぼ平らげたのは、元親45歳の時(1585年)
初陣から数えて20数年の時間をかけた
この男の、青春の季節の、そのほぼ全ての時間をかけた
「かけた」とは、つまり「賭けた」のだ
何かの拍子に負けて、それまで築き上げた全てを失うかもしれない勝負事に、己の青春を「賭けた」のだ
「賭け」とはつまり、己の「夢」とか「野望」といったものへ向けた跳躍だ
「今ある現状」という踏み切り位置から「夢」という目標着地点までの間には、底知れないほどに絶望的な、暗く深い断崖が大きく口をあけて横たわっている
そういう危ういモノに、己の青春を賭けた
己だけでなく妻も、子も、家も、領土も、民草も、全てを灰燼の中に失うかもしれぬのを覚悟で「賭けた」のだ
青春とはつまり、右上がりの季節の総称だ
向上とか上昇とか成長とか繁栄といった変容を、時の経過がほぼ無条件に提供してくれる季節の総称だ
それはつまり夏なのだ
元親は、彼の人生における「夏」の全てを、そういう危ういモノに賭けた
賭けたその結果、彼は四国をほぼ手中にした
しかしその代償として、誼を結びつつあった信長と敵対関係に陥ってしまうコトとなった
苦心惨憺してようやく四国を平定し終えた頃、本能寺で討たれた主君 信長の後を享け、秀吉が四国征伐に乗り出した
秀吉は、8万以上の兵力を以って阿波・讃岐・伊予の三方面から四国に向け侵攻を開始
これに対し、元親がぎりぎり搾り出すコトができた兵力は、自ら布いた一領具足を総動員しても四国全土で2万~3万
開戦から2月ほどで大勢は決し、元親は降伏(1585年)
元親は、その賭けに敗れた
己の青春を賭し、領土を荒廃させ、2万以上の将兵の骸を野山に晒し、謀略と血涙の果てにようやく切り取った四国は、闖入してきた秀吉にあまりにも容易くさらわれてしまった
元親は秀吉にひざを屈して臣従しなければならない立場となり、土佐一国のみを安堵された
全ては振り出しに戻った
四国平定後、あわよくば中原へ躍り出、七つ酢漿草の旗をうち立てるという危うい夢を、情熱を、これ以後の元親はなくしてしまった様にまるで無気力の体となった
しかしその一方で、まだこの時、彼の夢は半ばしか潰えていなかったようにも思える
将器に優れ、手塩にかけて英才を育んだ長男・信親に、事後を託そうと目論んでいたようにも見える
後嗣のない秀吉の、その死後に来るであろう風雲に備え、長男・信親を秘蔵していたのかもしれない
信親という出来すぎた息子はおそらく、元親という賭博師にとって、掌中に潜ませた最後の隠し玉のつもりだったのではないか
そういう信親を… 丹精込めて育んだ最後の隠し玉を、この賭博師は実にばかばかしい成り行きで呆気なく失う
四国が収まった後、秀吉はいそいそと島津征伐へ着手
その先鋒として、元親・信親父子を差し向けた
轡を並べて往くのは、かつて四国平定の折、阿波攻めで元親が苦しめ、また逆に苦しめられもした十河存保
長宗我部・十河の二隊を統べる軍監に、秀吉子飼の仙石権兵衛久秀
即時の戦力として恃める兵力は長宗我部・十河・仙石の6000
対峙する島津勢は1万強の上、戦意騰がり兵は精強
このため元親・信親は直接対決を避け、秀吉本隊を待つ持久戦を主張
秀吉からの下知も、防戦に徹し本隊到着を待てというものだった
一方の軍監・権兵衛久秀は功を焦って主戦論を唱え、元親・信親の旧敵・十河存保もこれに同調
総指揮官である軍監が主戦論を唱え、軍議もこれに傾いてしまったため、彼らは無謀暴挙とも言える戸次川の合戦へと突入することとなる(1586年)
開戦当初、島津方は得意の釣り野伏せを用いて仙石隊を釣り、これに乗って深入りした仙石隊は陣列を縦に伸ばしきった左右から無数の種子島に撃ちしらまされ、一気に潰走してしまった
この作戦、最大の主戦論者だったはずの仙石権兵衛久秀は、恐怖のあまり諸将も兵・馬も置き去りに、小倉までまっさきに逃げた
それでもまだ恐怖拭い難く、小船に身を隠して一夜を明かし、船を乗り継いでとうとう淡路洲本まで単身で逃げ帰った
血みどろの戦場に置き去られ、孤立した形の長宗我部・十河の連合部隊は死力を尽くして奮戦せざるをえなくなった
十河存保は実子・千松丸を落ち延びさせた後、薩摩隼人どもに討たれて散った
一方、敵軍に包囲されたまま置き去られた長男・信親はこの時22、血気の盛り
薩兵の銃に撃ちしらまされ、激減した兵と共に血刀を振るったが、いよいよその死期と死所を悟り、敵陣への白兵突撃を敢行する
この時、信親の手勢700は口々に「御供、御供」とおめきを上げて信親に続き敵陣に向けて突貫
薩軍では後々までこの異様な光景を物語った
結果、将兵ことごとくが突貫憤死
元親も包囲軍を退けつつ旋回退避の下知に忙しかったが、戦況いよいよ捗々しからず
信親憤死の報に触れてその場に崩れ落ち、恥かしげもなく号泣して自殺を口走るありさまだった
戦は、たった一日で自軍が壊乱して終わってしまった
その将来の雄飛を嘱望し、元親が丹精込めて練り上げた信親という隠し玉は、硝煙弾雨の中にむなしく飛散してしまった
信親を盛り立てつつ次の風雲を待つという元親の唯一残された賭けは、此処に儚く潰えた
この時、元親48歳
これ以後の元親は、腑抜けてしまったかの様に、本当に無気力に見える
秀吉やその周辺に対する擬態などではなく、無気力で気鬱で固陋な、ただの老爺になってしまったかの様にすら見える
この戦の後、元親は12年ほど存命するが、己の人生における盛夏の頃に見せた英気も覇気も明敏も、すっかり影を潜めてしまった
慶長四年(1599)、若草が勢いを帯びて繁茂する盛夏の頃、元親は逝く
享年61
己の夏を賭けた夢を、信親を、それら全てを攫っていった太閤秀吉は、既に前年の夏、「露とおち 露と消えにし わが身かな 難波のことも 夢のまた夢」と詠んで往生していた
謀略に長けた往時の元親ならば、この前後の時期、けっして無策のままではいなかっただろう
しかし、家康に接近して誼を結ぶ事も、豊臣勢力に与してその発言力を強める事も、黒田あたりと謀る事もせず、また一切の事後処置も施さなかった
家中周囲の強い反対を押し切り、四男・盛親を後継に宣したうえ、他家の養子となっていた次男三男をその派閥もろともに処断
溺愛した信親の、その娘と盛親とを娶わせ、家中の乱れを誘発して家勢を大いに衰えさせた
そして秀吉死後の方途も、己の死後の方策も、盛親にも重臣にも授けぬままに逝った
それはどこか捨て鉢で、どこか不貞腐れているかのような印象を受ける末期だ
四男・盛親は関が原前後のどさくさの時期に家督を相続することとなった
時節紛糾し、右も左も上も下も騒然とする中、己が置かれた状況も把握できぬまま、時局は関ヶ原へと一気に収斂されていく
盛親、此処に至ってどうする事もできず、東軍への密使も捕縛されてしまい、やむなく西軍に与した
関が原の合戦は東西両軍あわせて15万を超える大合戦であったにもかかわらず、たった1日で終了
盛親は一戦もしないまま敗軍の将の身の上となり、結果、長宗我部家は改易となった
亡父・元親が苦心惨憺し、四半世紀を賭けてようやく切り取って得た土佐一国は、小山評定でまっさきに家康に阿った山内一豊が、たった一言のおべっかを弄することで難なく掠め取っていくこととなった
この戦の後、盛親は名を大岩幽夢と改めて蟄居の身となり、大阪で寺子屋の師範をして過ごした
15年後、夏の陣での盛親は、近江閥きっての美将・木村重成とともに八尾・若江方面に奮戦
家康本陣を衝くべく5000の手勢を率いて闘ったが、武運拙く破れて捕らえられ、戦後、六条川原にて子女と共に斬首
その首は三条川原に晒され、遂に長宗我部家はこの地上より滅んだ
元親がその全てを賭し、血道をあげて得ようと足掻いた望みは、これをもって遂に幕を閉じた
否、
元親最晩年の庶子で、信親からかぞえて六男にあたる伸九郎康豊が、かろうじてその命脈を保ち、その子孫はのちのち五千石を食んだともある
元親の身の丈に合う身上とは、せいぜいこの程度だったという、天の差配の皮肉にも読める
労多くして得る物なく、却って失うことばかりでしかないという、そういう世のばかばかしさを知って、心底から嫌気がさした
元親という男の、そんな心境が、近頃は特に身近に感じられるようになった
元親とおなじ年頃に子を得て我が夏を過ごし、元親と同じ晩秋の年頃に子を失ったせいかもしれない
あの子の命日によせて
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