あずかりモノを返すとき

「コドモは授かりモノ」などと言ったりするが、たぶんきっと、それはちがう

授かったのではなく「預かった」のだ

預かりモノなので、不意に意図しない時に、預け主から返却を迫られたりする

預け主の言うコトなので、断るコトも拒むコトもできない

預かっているあいだ、過ごした時間が濃密であればあるだけ、返却には応じ難くなる

いつの間にか預かりモノであるコトを忘れ、己に授けられた所有物であるかのような、己の身体の一部であるかのような、そういう錯覚に溺れて預かりモノを慈しむからだろう

思えば、コドモだけのコトではない

肉親も、兄弟も、朋友も、愛おしい存在も、それほどでもない存在も、出逢った全ての存在も

己の髪の毛一本から爪の先までも

まして己の技術や能力や社会的地位や財産すらも

ドレもコレも、全て預かりモノだ

不変・不動のモノなどありはしない

いつなんどき返却を要請されても、拒むコトなどできはしない

己自身の所有物など、この世にはいっさい存在しないのだと気付かされて愕然とさせられる

ドレもコレも、誰も彼も、己自身すらも、いずれはすべて返さねばならない

故に、返却の苦しみをあじわいたくなければ、何にも対しても誰に対してもむろん己に対しても、微塵の執着も抱くべきではない

愛し慈しんでも良いが、それに執着すべきではない

そう分かってはいるのだが、しかしやはりワタシは凡愚であるので、時をかけて慈しんだモノには執着が生じる

己の執着した存在が失われた時、身を斬られるような痛哭が唇から漏れる

そういう、愚かな情念に対する限りない共感と同情を、仏教では「慈悲」と呼ぶのだろう

そういう愚かな凡夫すらをも慈しみ、共に泣いてやるココロを慈悲と呼ぶのだろう

ワタシはなにぶんにも執着の強い性分で、返すとなった時のいさぎわるさは目に余るほどに恥ずかしいものだ

地に泣き伏し、地団駄を踏み、おめきをあげ、天に唾を吐き、誰彼かまわず呪う

いつまでも呪う

それほどに執着する

それでも返さねばならない

何にどう悪態をついたところで、必ず返さねばならない

それゆえ、「できれば今後いっさい、何者にも執着など持ちたくはない」などとクチにしてみる

返す時の苦痛を、これ以上あじわいたくはない

しかし、それすらも執着

「あじわいたくない」という執着

故にコレも捨てねばならぬ

「したい」とか「したくない」とかの「欲」を捨てねばならぬ

できるのかできぬのか、分からぬが捨てねばならぬ

8年前の今日、大事な大事な長男を天に返した

ワタシの腕の中でがっくりと力が抜け、瞳孔がゆっくりと開いてゆき、苦痛に苛まれるまま、預け主の元へ返っていった

この先あと何度、この返却の痛みに哭かねばならぬのだろう

いずれその時が訪れるというコトが恐ろしくて仕方がない

恐ろしくて恐ろしくて居ても立ってもいられず、その恐れをどうにか鎮めたくて仕方がない

過ぎ去る者たちよ、そんなに急ぐな

<吉田拓郎:いつか夜の雨が>

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