痛みの記憶

普段ちっとも気にならないのに、病気にかかったりして身体の抵抗力が落ちていると、ずっと昔に負った傷や部位が、ごくひそやかに、痛みの声をあげているコトに気づくコトがある

小学校にもあがっていない頃、預けられていた叔母の家の階段から落ちて激しく打ちつけた左後頭部や、拳を固めるために殴り続けていたコンクリの電柱を、殴り損ねて傷めた左手首や右親指、自転車でコケてガードレールに叩きつけてしまった左上顎、最近ではカートでサーキットを走ってて、コースアウトした時に路面と後輪の間に挟まって骨折した左前腕

誰しも、多かれ少なかれそんな部位があるだろう

キズや痛みは時の経過とともに薄らいで、軽度のモノであれば表面上なんら損傷の痕を見出すコトも難しくなり、痛みが軽減していくにつれ、そんなキズを負ったという記憶さえ忘れ去ってしまったりする

そんな、忘れかけた痛みが、体力や免疫力の低下といった、何らかのきっかけでふたたび呼び起こされたりする

思うのだが、このわれわれの肉体というモノは、受けた苦痛を消し去ったり完治させたりという機能をもともと有していないのではないか

修復機能を有するから、表面上はキズが縮小したり消えうせた様には見える

修復機能を有するから、初期の激痛は少しずつではあるが和らぐ

痛覚を軽減させるための脳内物質みたいのも分泌されるのだろう

しかし、痛みの源を根本から取り除くわけではない

だから、身体が弱ってくると、それまで覆い隠せていた昔の痛みを覆い隠せなくなって、それで古傷が疼いたりするのではないか

身体のキズがそうだとしたら、心のキズもおんなじなのかもしれない

時の経過は、ヒトに忘却という作用を促す

忘れるコトは必ずしも良いコトばかりではなくて、決して忘れたくないような輝かしい記憶すらも、時の奔流に押し流されて見失ってしまったりするが、哀しみとか苦しみ、悔恨などという、なかなか流れにくいモノも、長い時間のうちに少しずつ下流へと押し動かしては摩滅させ、知らぬうちにその哀しみを忘れてしまっていたりする

しかし、心の痛みを「忘れる」という作用と、心の痛みを「失くす」という作用は、実はまったくの別コトなのではないか

たとえば幼かった頃に味わったなんとも言えないような孤独感や喪失感…そういったモノをいい大人になってから夢に見て、ありありと思い出すコトがある

何かの拍子に、哀しみを体験した時と似たような状況が再現されて、それで突然涙があふれてきたりする

きっと、心のキズもどんなに時間が経過しようと、消えうせたりはしないのだ

記憶は、ソレが快であろうと不快であろうと区別なく、あたかもマリンスノーの様に、脳のある特定の部位に層々と降り積もっては堆積してゆくのではないか

心のキズの上にも、どんどんと新しい記憶が堆積してキズの存在を覆い隠してしまうが、心のタガが緩んだり、記憶を呼び起こす何らかのきっかけがあれば、遠く幼い頃の、自分では記憶したという意識すらないような心の痛みでさえ、いま現在のキズの痛みの様に異様な生々しさで体感しうるものなのではないか

酒をあおろうが、向精神薬を飲もうが、時間が経とうが、新しい喜びに包まれていようが、心に刻まれたキズの痛みから逃れるコトはできない

そんなモノは最初からなかったかのように、忘れるくらいのコトしかできない

知らん顔をして、自分の心をごまかす以外にキズの痛みから逃れる術はない

哀しみなどというキズを記憶しておくなど、なくても良さそうな機能なのに、あえて存在している…不思議な機能だ

<中島みゆき:りばいばる>

コメント

  1. マリンスノー

    陽の光も届かぬほど深い海底に、永い永い時間をかけてゆっくりと、そしてうっすらと、ごくごく少しずつ降り積もってゆく白い堆積物… それをマリンスノーと呼ぶのだと教えてくれたのは、ハナったらしの頃に視たアニメーションだった

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