愛憎絵巻…ヒトとキカイと技術と愛

ワタシの弟は、肢体不自由児だった

母親も肢体不自由だったから、弟が同じ障害を持っていると知った時、どれほど哀しかったことだろうと思う

弟の育児日記みたいなものを子供のころに見つけて、それをこっそり読んだコトがあった

産まれた時の、あまりの脚の細さに驚いた様子

いつになってもハイハイしかできす、つかまり立ちしようにもできないコトへの不安

医師に診察を受け、自分と同じ障害を持っていると聞いたときの衝撃

病院から帰る途中の高架橋の上で、ずいぶんと長いこと考え込んでしまっていたコト

たまたま通りかかった祖母に説得されて思いとどまったコト

育児日記の最後に記された言葉は「裕司、ごめんね」だったコト

少し前の記事にも書いたケド、ワタシたち家族は、そういう弟を守り育てるという一点において一丸となっていた家族だった

弟は生後2年ほど経っても一向に立つコト叶わず、貧しかった我が家にはそれをどうにかするための経済的なチカラもなかったから、ずいぶんと長いこと、弟は矯正用(なのかな?)のコルセットをしたままだった

4畳半ふた間の借家、外に向けて開け放った窓際にちょこんと座って外界を見る以外、外と接する機会は弟にはなかった

ワタシは、そうゆう弟をはなはだ慈しんだ

もともとアウトドア派でもなかったし、外で遊ぶにしても忍者ごっこができればそれで良い(しかもくのいちオンリー)コドモだったから、ちっとも苦ではなかった

やきいも屋さんが近くを通ればワタシが買いに行って、弟といっしょに窓際で食べた

水遊びも雪合戦もとんぼ獲りも全部、家の前の、庭とも呼べぬ程に狭い空間で充分に済ませるコトが可能だったし、それを不足だとも思わなかった

それ以外は家の中で一緒に絵を描いたり、本を読んだり、おはなしを考えたり、マットレスと押入れを活用して基地を作ったり、人形やブロックで遊んだりして過ごした

弟が3つになる少し前、ようやく手術の算段がついて、弟は母と一緒に入院した

父は三交代勤務(参勤交代じゃないょw)の肉体労働者だったから、ワタシは叔母の家にあずけられた

弟の手術は、その時代日本でも数例しかないという術式だったそうで、チタン製の大腿骨頭と、その受け側の人工関節が骨盤に埋設された

成長期のコドモであるため、身体の成長に合わせてその後なんども手術を繰り返し、その度に弟の腰から下には痛々しい痕が刻まれた

最初の手術の時、ワタシは立ち会えなかったのだが、手術台に載せられ手術室へ運ばれる弟は父に向かって「おとうさん、たすけて」と、何度も叫んだそうだ

手術室に入って扉が閉じられてからも、しばらくそうやって叫んでいたという

父・母は、一体どんな想いでその声を聞いたのだろうと思う

無力でなんらの術を持たない自分を、どれほどみじめに思ったことだろうと思う

にもかかわらず、「無力でなんらの術を持たない」自分から脱却しようとしない「無策なトコロ」が、はなはだキライでもあるのだけど…

弟は肢体不自由であると同時に、骨の内部構造を蝕む病を先天的に患っていて、手術はずいぶんと難航したのだと言う

骨を切断すると、内部の骨組織が滲出してきて、骨の外形を維持するコト自体が至難なのだそうだ

それでも予定の術式を可能ならしめた医師団の神技を想う時、よくもまあ、そのような脆弱な骨組織に対して困難な術式を施せたものだと、いつも胸の底から嘆息が出る

手術が終わり、一年ほど過ぎて弟と母が家に戻った

ワタシは幼稚園の年長組の後半あたりで、「神経質なコドモだし、生活習慣を切り替えるのは小学校にあがってからのが良いだろう」というオトナたちの理屈で叔母の家に留まることになった

そういうワケで、ワタシはその後も半年ほど、族員がそろっているハズの家族に会えるのは週末だけという、妙な境遇で過ごした

それでも弟の苦痛や父・母の苦労・苦悩を想えば、別にがんばれないコトではないと思えたし、家にいて父に殴られたり蹴られたりするよりはまぁ良いかとも思えたし、なにより叔母の部屋でお化粧したりできたから(笑)、それはそれで受容できる範囲だった

が、今でもたとえどの集団に属していようと、自分自身の帰属意識がどことなく曖昧で不確かな気分がするのは、こういうトコから来ているような気もする

小学校3年にあがってもしばらくは毎夜のおねしょが治らなかったというのも、こういうコトが影響していたのではないかと今にして自己分析してみたりするが、今となっては後の祭りだw

まぁ、時間が過ぎて、やがてワタシたち家族は再び同じ屋根の下で暮らすようにはなったのだから、そういう「いまさら何を言ったトコロでどうにもならないようなコトをあげつらって、そこに現在の自分の不都合の理由をくっつける」という卑怯なコトをしても、あんまり気分の良いものではないか…

「脚が治って歩けるようになったらドコに行こうか」と尋ねると、弟は必ず「こうえん」と答えた

「誰と行くの」と尋ねると「にいやんと…」と、たどたどしい口調で答えたものだった

とても愛おしい存在だった

だから、歩けないコトを嗤う近所のコドモも、歩けるようになってからもびっこをひく様を嗤ったヤツも、身体検査で裸になった弟の体中の傷痕をキモチ悪いと蔑んだヤツらも、全て決して許さなかった

父も母もそういうヤツを許さなかった

弟の敵は家族の敵であり、そういう敵がいるコトで、ワタシたち家族はひとつだったのだと思う

「絆」とは、あまり実感できない言葉ではあるのだけど、きっとああいうワタシたち家族の在りようを言う言葉なのだと今になってから思う

弟とワタシはさきの言葉通り、弟がなんとか自力で立ち上がって歩けるようになった時、近所の公園に行った

何をしたわけではなかったけれども、公園までゆっくりゆっくり何度も休みながら歩いて行って、芝生の上に寝転がって脚をばたばたしたりして笑いあった

それで充分に、弟もワタシも幸せを感じるコトができたのだと思う

弟もワタシも、その後数十年の時間を生きた

父も母も、同じように数十年を生きた

強く優しい兄に憧れて育った弟は、オカマになったワタシを憎み、享け要れるコトを拒絶することを選んだ

父も母も、オカマになったワタシを理解できず、そのお互いの不理解を埋めるための会話も拒絶することを選んだ

彼ら三人は共に暮らし、ワタシひとりが、別の空の下で生きるコトとなった

なぁに、また叔母の家にあずけられていた頃に戻ったみたいなものさね

こういう状態は慣れているのだw

彼らには、彼らなりの苦痛や苦悩がある

五体満足に生まれた「兄」であるワタシは、それくらい我慢しなければならない

「兄」とか「姉」とかいう存在とゆうのは、そうゆうモノなのだ

弟や妹を守り、家を守り、族員の安寧を図る… それが「兄」や「姉」の役割だ

どうと言うほどのコトではない

裕ちゃん、今はね、こんなキカイができたんだよ

これなら痛くないし、入院なんかしなくても良いね

これでまた、一緒に公園に歩いていこう

芝生に寝転がって、空にむかって脚をばたばたしよう

きっとまた、なんでか分からないけど、おなかの底からけらけら笑えるでしょう

<↑ 15:40辺りからが真田さんの真骨頂!>

<真田さん・斎藤 突貫!>

(↑「真田さんの船外活動服の気密はいったいどうなっているんだろう?」とか、「そんな危ない手足をくっつけたまま敵の砲火の下を疾走するのってどうなんです?」とか、そうゆうツッコミはナシですぜw 旅立つ漢の胸には、浪漫のカケラがあれば良いんですからw)

———- 追記 ———-

れれ?

おかしいなぁ、この記事、サイバネティックな技術の進歩と生命との有機的な融合を書こうと思ってたハズなんだけど…w

よろしければおクチ直しにコレとかコレなど召し上がれませ

コメント

  1. ビバメヒ より:

    手術室のくだりはそういう経験をした親として読んで、特に辛かったな。
    家族の絆については改めて考えたわ。うちは既に母が欠損した形なんだけど、構成員に変化があれば関係にも変化がでる。家族って何だろうね。子供殺してしまう親もいるしなぁ。

  2. ロビンちゃん より:

    >ビバ☆メヒコさま
    野にあるケモノは、自らの子を産育するためのごく短い期間のみ、「家族」を形成する種が多いですよね
    ハーレムを築き、永続的に父系や母系の集団を営む種もありますケド、基本的には、生じた子がその集団に所属し続けるコトは稀なようです
    次の世代までその集団に所属し続けてしまったら、血が濃くなりすぎてしまって、結果的に種の衰退に繋がってしまいますもんね
    そんな理由からなのか、次の世代の子らは自立可能な頃合になると群れや家族を離れ、自らの新しいテリトリを求めて彷徨します
    そうして子が離れ行くと、それまでの夫婦を解消して新しい相方を探す種もあれば、同じ相方と新たな子を生すコトに勤しむ種もあります
    そう考えると、「ヒト」という生物が営む「家族」も同様に、本来は子が自立可能になるまでの間、「かりそめに葺いた屋根の下、たまたま集うた集団」の呼称なのではないかと思ったりもします
    少なくとも自立可能な子が、いつまでも親の下にあるべきではないと思うし、親も親で、いつまでも子を手元に置こうとか、ゆくゆく子の世話になろうとか目論むべきではない
    ↓へつづく

  3. ロビンちゃん より:

    つづきです
    何らかの理由によって、たとえもはや、家族が原初の体を成さなくなってしまっていたとしても、かつて、ほんの一時期、かりそめに葺いた屋根の下で共に過ごし、族員を慈しみ、族員から慈しまれた… そういう記憶を互いの胸に残せていれば、それでもう充分に「家族」という「いれもの」は、その機能を果たし得たと考えます
    子はその記憶を頼りに新たな「かりそめの屋根」を葺き、ソコに新たな「家族」を営めばそれで良い
    時が過ぎ、族員が欠け、かつてあった懐かしき苫屋がその形骸を残すのみとなっても、それで良い
    なぜならそれは、ごく限られた期間、何らかの目的達成のため、一時的に形づくった「かりそめの関わり合い」なのだから
    族員に対して、家族という「いれもの」に対して、それ以上の「何か」を望んでしまうのは、とても欲深い行いなんじゃないかな
    最近は、そんな風に思ったりします

  4. ビバメヒ より:

     例えかりそめの関わり合いだとしても、その関わり合いがその後も尾を引く状態ってのがあると思うんだけどね。家族は、DNAが非常に似ている(何という熟語か適当な語句が出ない。類似じゃないし)だけに、尾を引くのだと思う。
     俺も、自分の子どもに過剰な期待をしていると思う。将来一緒に暮らせたらなんて考えているのは、軟弱?君の言わんとすることもわかるんだけど、何か「虚無的」な感じがする。人間の感情は化学反応式、と言った君の言葉は20年以上前、衝撃として受け止めた。確かにそうなんだけど、今こうやってみんなでいて、楽しかったり、腹が立ったり、悲しんだりしてるのって何?とかも、同時に思った。
     その辺り、全て理解した上での君の発言だと信じるから、君のブログは、本当に色々と考えさせられるわん(こまわりくん風に)。

  5. 36年目の夏

    地域の救急救命センターが付近にあるせいで、毎夜、夜半過ぎのサイレンが数回は響く

error: Content is protected !!
タイトルとURLをコピーしました