厭離穢土・欣求浄土

高校1年の頃、弟と貯金を出し合って初めてビデオデッキを購入した

当時からマニアックなお子サマだったワタシたち姉弟は、迷うコトなくベータを選択w

生まれて初めて録画したのは、たまたま購入翌日の早朝、再放送していたウルトラセブンの第45話「円盤が来た」だった

この作品、弟と何度繰り返し見たコトか…

当時、ワタシも弟もどっちも思春期になってて、泣き言をクチにするのはオトコとして恥であるという無意味な「枷」にとらわれてた頃

だけどこの作品は、ワタシと弟の二人の心に共通して内在する「厭世感」というヤツをビンビンと刺激した

いい年になった今でも、数あるウルトラシリーズの中でも最高の文学作品だという点で意見の一致をみている(ちなみに二番は「怪獣使いと少年」かな ついで「ノンマルトの使者」でしょ、やっぱり)

コドモが見る番組というのは、水で薄めた味噌汁のようにクチに含むに足らぬモノが数多い

反面、それらの内のいくつかには、決してなめちゃイケない成分が濃厚に含有されていたりもする

30分という尺の中で、スポンサーとのやり合いの中で、そういった「オトナとしてのホンキ」の成分を如何に効果的に作品中に織り込むかと、クリエイターたちは試行錯誤・暗中模索する

だらだらと1時間近い時間をかけて、のんべんだらりんとした続き物の一話を作り、けっきょく第一話から通して全話見てみても、ただの時間つぶし的なおはなししか編めないような、そんな昨今のドラマを作ってる連中とは明らかにクリエイターとしてのこころざし… 心胆の組成が違うのだ

30分という尺の制限の内に、盛り込みたいエッセンスはふんだんにあり過ぎ、かつ、できる限り続き物にはしない

こういった製作上の制限は、創る上ではあまりにも過酷だが、しかしながらそのハードルをクリアできた時、作品の風味や濃度に絶妙な作用を施す

完成したモノからはムダな部分がまったく削ぎ落とされ、幾世代にもわたって永く口伝されてきた「民話」のように骨太く、濃厚なコクが出続けるからだ

そういったコドモ向け番組は、ヘタな文学作品の映像化なんぞよりもよほど多くの「何か」を、観る者に訴えかけてくる

この当時のウルトラシリーズには、本作同様に厭世的であったり、文明批判的であったりする作風の作品が非常に多い

製作年代は1960年代後半から70年代初頭

高度経済成長の真っ只中、日本列島改造が叫ばれ、沖縄がようやく日本に返還された頃だ

ガツガツとして旺盛な生存欲求や上昇志向が、国の全土を覆い尽くしていたような時期だ

「365歩のマーチ」に乗り、みんなが「モーレツ」な勢いで、ある一方向に向かって行軍していた頃だ

そうゆうさなかに生まれたからこそ余計に、静かな語りクチで綴られたこれらの作品群には強烈な「毒味」が醸成されているのだろう

と同時に、みんながみんなアクセクとおんなじ方向にむかって行軍しているトコロにうまく馴染めなかった者たちの心に、毒味への深い共感を呼び起こすのだろう

厭離穢土・欣求浄土というコトバは一向宗門徒が一揆を起こした時に旗印とした文言だ

「穢れた場所にこれ以上いるのはイヤだ とっとと浄らかな場所に行ってしまいたいなぁ」というような意味

三河の一向一揆ではコレを旗印に主君に刃を向けて争ったりしてるのだから、現代のワタシの戯言みたいなモノなどよりも、もっともっと切羽詰った命懸けの覚悟のコトバではある

できればそうゆう気分など抱かずに生を全うできれば幸いなコトだが、不幸にしてそういうワケにはいかない場合もある

楽園に住まう者は、楽園を夢想するコトもなければ夢想する必要もない

古来より、楽園・浄土・天国といった概念は過酷な境遇にあえぎ、地べたを這いずるようにして生きてきた人々が夢想した概念だ

それを現実逃避だと笑うコトは容易いが、その現実逃避がなければ救われなかった人々が無数にいたコトにも思いをめぐらせるコトができねば、その理解は片手落ちであるとも言える

弱さに甘んじているべきではないが、ヒトはさほどに強い存在でもないし、強さを維持し続けるコトはそれ以上に至難だ

「楽園」とか「浄土」とか「天国」といったものを夢想するコトで、過酷な環境に打ちのめされながらもどうにか今日を生き、明日に命を繋ぎ得た

「ヒト」は、そうゆう弱く脆く儚い… それゆえに慈しむべき存在なのではないか

ワタシは今でも、いつの日か目の前にペロリンガ星人がやってきてくれるコトを、心のドコかで待ち続けている

弟もきっとそうだろう

ワタシはいい年になってもワガママ通して生きるコトを選んだオカマだから、ペロリンガ星に連れて行ってもらえなくても仕方はないのだが、せめて彼くらいは連れて行ってあげてほしいモノだ

貴方もご一緒にいかがですか?

コメント

  1. ビバ☆メヒコ より:

     アクマイザー3をベータに記録する君の姿を鮮明に思い出したよ。まさか、現在の様にCS放送がバンバン貴重な映像を流してくれるなんて想像し得なかった時代、時代の徒花として存在し消えていったベータ。そして今やVHSさえ消え去ろうとしている。レーザーディスクなどは、なんだったのだろうか。うぅん。生々流転。
     そんな時代に、人々の記憶の中に刻まれるフィクションって言うのは、本当に凄いと思う。子どもと一緒に仮面ライダーダブル見てたんです(先週最終気だった)けど、制作者の意地みたいなものが見え隠れする回があって、大人なりの楽しみ方をしています。立場と本音の狭間で苦しみ、仮面ライダーに殺されることを選ぶ悪役(ドーパントって言うのだ)の登場は、雑魚キャラであればあるほど哀しかった。悪いことだけをひたすらに考えられる悪役ってのはむしろ幸せで、葛藤の中に生きる大人をさりげなく描くってのは、どきっとさせられた。
     ウルトラセブンは見てないけど、きっとココロの波長がびしっと合ったんだろうね。サンクチュアリであるペロリンガ星は、地球のどこかにないのかな。

  2. みるだ・なな より:

    ついこの前NHKで脚本家 金城哲夫さんの特集をしていた。この人ウルトラQの頃からこのシリーズの脚本をちょくちょく手がけていたそうです。沖縄出身で戦時中のダークな部分を背負ったまま本州で偶然ウルトラシリーズの仕事を手がけることになったのですが
    Qからセブンにかけての何とも言えないノスタルジー感はやはりこの辺の人(実相時監督さんも)が居たからこそ醸し出てたんでしょうね。「ノンマルト」では沖縄出身の本人の本音をついに炸裂さしてしまいます。こうした作品を製作し放映できる時代が今では考えられなくなってしまいました。現在はライダーやレンジャー等々特撮物の残党はあきらかにスポンサーの商品ありきで番組構成が進んでいることは明白で、そこには一監督や脚本家のこだわりが入り込む余地はない、そんな時代にはいっちゃったんですよね。
    ちょっとした下町風の街角で夕焼けに出会ったりしたら、即セブンの世界観を抱いてしまいます。 どうしてでしょうか。いつまでもそこに佇んでいたくなります。
    その時自分はその先の人気のない曲がり角にペロリンガ星人が佇んでいることを期待したりして。
    わくしの場合は宇宙までとはいいません。
    少なくとも現在いる現実から夕焼けに染まり続ける時間に連れてってほしいと思うのです。
    そこにはただただ赤く染まる川、街の建物の壁、長く伸びた影、遠くに聞こえる工場の音、家路に急いだのか、人影のない路地、公園、自分の場合そこにずっと「居る」だけでいいのです。
    その時は是非、弟思いのロビン兄ちゃんと弟さんもよろしくとペロリンガ星人(メトロン星人でもいいっか)に伝えたいと思います。

  3. ロビンちゃん より:

    >ビバ☆メヒコさま
    アクマイザー、録りましたねぇw
    レーザーディスクも、未だあたしの部屋では現役で活躍してますょ
    ただ、生産中止になって久しいレーザー… 経年劣化で動かなくなっちゃう前に、ソフトの方をデジタライズしておかなくちゃね^^;
    DVDやブルーレイでは発売されてない作品なんかも多いし…
    90年代以降のコドモ向けの番組には、創り手や親の世代がアニメや特撮やマンガで育ってきた世代だってゆうのもあるし、オトナの幼児化ってゆうのもあるんでしょうケド、オトナの観賞にも耐え得るクォリティのモノがソコソコ増えてきました
    スポンサー側が、親の世代の消費もアテこんでるってゆうのが一番大きい要因なんですケド…
    まぁ、理由はどうあれ、作品群全体のクォリティが底上げされるのは悪いコトではないので、歓迎すべきなんです
    ↓へつづく

  4. ロビンちゃん より:

    ↑のつづき
    ただ、いまひとつ最近の作品に入り込めないのは、作品それ自体が内包している「怨念の量」が、決定的に不足してるコトかなぁと思ったりします
    なんていうか、喜びも哀しみも怒りも怨嗟も、どれもこれもうわっつらのコトバだけをさらりと撫ぜて記号化してしまっているような、薄っぺらいシナリオだからなのかもしれません
    余りにもおなかがすいてモノを考えられなくなっちゃうのを実感したコトのないヒトが空腹を語ったり、湧き上がる殺意を本気でねじ伏せたコトのないヒトが葛藤を表現したりしても、それはとっても絵空事なカンジがしてしまって、ソコに何かをダブらせて見てしまったり、共感を感じるコトが乏しいんでしょうね
    創る側も観る側も同様に、手応えのある肉感の中で育ってくるコトが少なかったが故なんじゃないのかな
    今や創る側・見せる側となったワタシたちオトナが、その10代の大半を過ごした「80年代」というモノが、如何に浮薄で無価値なモノの氾濫で出来上がっていたかというコトの証左の様な気がします
    「闘うべき相手も目的も見失ってしまった時代」を生きたかつての若者たち…
    その、「かつての若者たち」が創ったモノを見て育つ、現代のコドモたち…
    伝えたいコトなど、さほど持っていない世代が背伸びをして意味ありげなコトを伝えるポーズをしてみたトコロで、実はさほどにメッセージ性を帯びるコトはありませんよね
    でも、「伝えたいコトはさほどない」というコトを伝えようとする姿勢にこそ、実は現代の表現者に残された活路なのかもしかもしれないと思うのです
    肉感を伴った喜怒哀楽… 表現するべき内容が枯渇してしまっている現代だからこそもう一度、そういった表現者の原初に立ち返るべき時なのではないかと思うのです

  5. ロビンちゃん より:

    >みるだ・ななサマ
    ごぶさたです
    ワタシもその番組視てましたょ
    もうちょいマニアを悦ばせてくれるように深いトコまで突っ込んでくれると、もっと良かったですねー
    この当時のウルトラシリーズは、金城・上原・実相寺をはじめとする若手の実力派が製作スタッフとなっていて、しかも円谷のオヤジ殿もご健在だっただけに、良質な作品がたくさんありますょね^^
    この作品も、いかにも実相寺らしい撮り方で、もはや映画のクォリティでしょ?
    夕方時の野球実況が遠くに聞こえてたり、なんてゆうのはお約束ですもんね
    この作品では特に、逆光の使い方とか上手ですよね
    しかもセブン自体が出てきてるのなんて、後半のわずか一分ほどです(しかもなんだか良く分からない戦闘だけ)w
    創り手が描きたかったのは、光の国から来た超人なんかじゃなかったってゆうのが、如実に伝わってきます
    ↓へつづく

  6. ロビンちゃん より:

    ↑のつづき
    このおはなしの終了まぎわ、ダンがフクシンさんに「いずれ、ウルトラ勲章はキミのものさ」と言葉をかけていますケド、当のフクシンさんの耳にはあんまり響いてない様子
    下町のひとびとからの祝福の言葉も、彼にはただの喧騒としてしか響かないから、逃げるように下宿の部屋に駆け上がって、再び星の世界に逃避してしまいます
    結局、たとえウルトラセブンでさえ、現実の世界に馴染めない若者の心は救えなかったんですょね
    喧騒の一夜明けて、何事も無かったかのように、フクシンさんは始業のサイレンを聞きながら職場への道を急ぎます(つまり遅刻^^;)
    彼は、本当はペロリンガ星に連れて行ってもらいたかったんでしょうね
    なんとゆう皮肉なんでしょう
    「人間なんて、クチで言うほどにさほど良いもんなんかじゃないよね」って、言外に吐き捨てているかの様な、そうゆう作品として人間の救世主を描くはずのウルトラシリーズを使うところがスゴ過ぎです
    ↓へつづく

  7. ロビンちゃん より:

    ↑のつづき
    作中の風景は、昭和40年代に少年時代を過ごしたちびっこなら誰もが郷愁を抱く原風景となってますよね
    宅地造成地、土管、ショベルカーでえぐった赤土の見える地層、町並み、廃棄された家電や車の山、人々の服装… もはやドコにもなくなってしまった景色です
    ことにエアコンなどないのが当たり前だった当時、ヒトは季節や気温にダイレクトに晒されていて、汗やホコリにまみれた生活感… もっと言えば「生活臭」こそが妙なリアリティを生み出してくれます
    実相寺が巧いのは、そうゆうトコも忘れずに撮ってるトコなんじゃないかな
    匂いって、五感の中でも一番生理的な部分に訴えかけてくる感覚なので、ある特定の匂いを嗅ぐとなんだか懐かしくなったり切なくなったりするコトってありますよね
    生活臭すら感じさせる映像を描き出すコトが、一種の郷愁に結びついていくんだと思ったりします
    ちなみに数年前の特撮誌「宇宙船」では小コラムが載っていて、「この作品が縁となって、今でもフクシンさん役の冷泉公裕さんと、バロムワンの片割れ・白鳥健太郎こと、高野浩幸さんは今でも親交があるのだ」そうです
    記事を読んでなんだかとっても嬉しくなりましたょ
    高野浩幸さんはいまでもファンクラブがあって、オフィシャルHPも活況なご様子であります
    喜ばしいコトであります

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