こともあろうに平日の19:00~20:00、TVK(テレビ神奈川?)では巨人の星を再放送していたりする
ホントはNHKのニュースなどを見たいトコではあるのだケド、どうしてもこっちに気を惹かれてしまう
なんつっても毎日、しかも2話連続で(3話以上になるとさすがに胃にもたれそうw)、あの暑苦しいおはなしを見れるのはステキだ
いまさら紹介するほどのコトでもないが、主人公の飛雄馬は、ひゅうま=ヒューマン=「人間」という名前の通り、情緒面において過敏すぎるほどにセンシティブで、つまりは人間としての苦悩というヤツのカタマリみたいなオトコだ
なおかつ、これっぱかしも柔軟性というモノを持ち合わせない「硬直しきった精神構造」を、ハナったらしの頃からあの親父に叩き込まれて育ってしまっているがために、なんらかのトラブルに直面すると為すすべも無く立ち尽くしてしまうコトばかり…
良く言えば「不器用だが優しいヒト」なのだケド、一度の失敗や敗北からより多くのコトを学べなくては、人間としてあまり上等な部類だとは言いがたい
更に言えば、自分の精神がまったく硬直しきっていて、いちいちチカラが入り過ぎなのだというコトを自覚しているにもかかわらず、直面した問題に対して真正面からぶつかろうとし過ぎなのだ
何度か失敗や敗北を味わえば、別の視点に立って考え直してみたり、搦め手から攻めるコトなどを模索しようものだろうに、そしてそれを自分でも分かっているクセに、わざわざ正面突破しようと試みて撃沈される
自分の体質を自覚していながら、生活習慣を改めようとしない不摂生者にも通じるかたくなな姿勢には、ある種の怒りすら感じさせられる
ことに、ライバルや敵対者から受ける精神攻撃に対するあまりの脆さには、いつも非常にイライラとさせられる
相手の術中にハマり、自分自身で創り上げた幻影とか思い込みみたいなモノに押しつぶされて自滅に至る… 極めて前時代的で非合理的なヤツだ…
嗚呼、こうやって書き連ねているだけでほんとイライラする
今日は大リーグボール一号のヒントに気付く回だった
こうやって↑、何かのきっかけによって、ごくたま~に自分のダメなトコに気付いたりもするんだケド、基本的な思考癖というか精神構造がもはや「体質」になっちゃってるヤツなもんだから、いつまでたっても懊悩したり煩悶したりする習慣から脱するコトができない… 考えようによってはとても可哀想なヤツだ
でもまぁ、ココまでではないにしても、ワタシというオカマにも似たような部分があって、生来の精神気質はコイツに極めて似通ってるような気がする
んでも、自分でもそれが甚だイヤなもんだから、意識的にアマノジャクでへそ曲がりな自分も心中に飼っていて、そいつのおかげでかろうじてバランスを取っているようなもんなのだろう
飛雄馬には、その「へそ曲がりでアマノジャク」な成分がないだけに、ことさらに哀れだ
自分のココロの逃がし方を知らない
それはつまり、場合によっては発狂に至ったり、生き難さのあまり自ら生を放棄せざるをえない状況に陥りかねないのと同義だ
コイツの場合で言えば、野球という「たかがタマ遊び」ごときに自分のすべてを賭け、自分の美学のためにソコで投手の命である利き腕を自壊させるに至る(実ゎチームのためではないw)
浪漫ではあるのかもしれぬ
しかし、自身の持てる技術をもって銭を稼ぐ野球人としてはあまりに短命に過ぎて、チームへの貢献度という点では甚だ疑問な存在だし、人としてのその後を考えてみても、二十歳になるかならぬかという人生の初期段階で、マウンドで死にきるコトもできぬまま、人生を賭したハズの戦場から撤退を余儀なくされて余生を生き永らえざるを得ない… これはよくよく考えてみれば敗北者そのものなのではないか(作品が作品単体で完結している以上、「新 巨人の星」に関しては考慮に入れない)
その心意気に打たれこそすれ、ソコに何かを求めるのはただの愚か者だ
そういうコトに浪漫を感じるコト… それ自体は結構なコトなのかもしれぬが、そうゆう気運の延長線上に「精神至上主義」があるのだし、なおかつ、そういった風潮が社会に蔓延しだしたりすると、あの鼻持ちならない「全体主義」ときわめて結びつきやすかったりする
言ってみればその二つが結びついた気運が昂じると、昭和初頭のドコかの国に蔓延していた、きなくさ~い雰囲気を招来しかねない
ワタシがいちばんキライな風潮で、考えるだけでもおぞけがはしる
1stのルパンで、五ェ門の師匠「百地のじじぃ」は、自分を殺しにやって来た五ェ門に対して、悪びれるコトもなくこう言い放つ
「殺しの秘術を残らず授けたおのれにも、たった一つだけ教えてやらなんだことがある。それはな、殺し方にあらずして、舌先三寸で敵を誤魔化し死地を逃れる、つまりはそれ生き方というやつじゃ」
百地に指摘された五ェ門の不器用さは、そのまま飛雄馬の不器用さに通じる
そこから脱しない以上、ある程度の域までは辿り着けても、己自身の硬直した体質・気質がアダとなって、その先には至り難い
似たような気質のオカマにも、この二人の在り方と百地の台詞… なんとはなしに教訓となるような気もする
「生き方」というヤツは、たしかにワタシも親父殿から教わらなかったもんな
あいつから教わったのは気概とか気迫みたいなモノだけだ
そんなもんでは生きていく上での岐路に立った時、なんのツールにもなりえない
たとえて言うなら、ガソリンだけ与えておいて、その効率的な燃焼方法も、エンジンの構造もセッティングも教えないのと同義だ
持て余したエナジーがやり場もないまま噴出し、無駄にあがくだけで、一向にドコかに向かって進むコトもできぬ
生き方を教えるとはつまり、ナイフやロープを授けるコトと同じだ
たったひとり荒野で生きていく上で、役に立つなんらかの「道具」を手渡してやるコトに他ならない
気概だの心意気だのという曖昧模糊として実効性に乏しいモノのみを後生大事に携えていたところで、どうなるものでもない
適切な時に適切な手を講じるコトのできる判断力と、それを具現化するための現実的な手段
それで充分に足りるのだ
何事かを学び取ろうという者も、それを肝に銘じて学び取らねば、道に窮したとき、無用の無力感に苛まれるだけだ
そんな事々などを想いながら記事をつらつらと書き連ねていると、オカマとしての「新しいワタシの在りよう」みたいなモノを模索してる最中のワタシの胸にも、なにやら老師の声が響いたような気がした
「他人サマから嗤われまい、嗤われまいと造った姿ほど脆いモノはない 嗤われて結構 いや、もう一歩すすめて嗤ってもらおう この心境を得たとき、難しく禅などといわんでも、悩み苦しむ人生の森の迷路に自ずと道も開けると思うのじゃが、いかがかのう…」
老師、お言葉 胸に染み入りました
でも老師、「嗤ってもらおう」って、そりゃ昨今の「オネエ系芸人」ってヤツになれってコトですか…
ソレって、なんか違うよなぁ…w
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