紀元前の中国、春秋戦国時代のヒト・列子の語る「杞憂」という故事がある
中国・杞(き)の国に心配性の男がいた
彼は天が落ちてきて、地が崩壊し、自分の身の寄せどころがなくなるのではないかと心配して、夜も眠れず食事ものどを通らなかった
その男の心配ぶりを見てさらに心配する男がいて、そのためわざわざ出かけて行って、彼を諭して言った
「天は『気』の集まりにすぎず、その『気』の無いところはない 君は体をかがめたり伸ばしたり、息を吸ったり吐いたりして、一日中天のなかで行動しているではないか それなのに、どうして天地が落ちてくるなんて心配しなければならないのだ」
「天が本当に『気』の集まりだとしても、太陽や月や星が落ちてくる心配は無いのだろうか」
「太陽も月も星も、みな『気』の集まりの中で光り輝いているだけにすぎない だから、万一落ちてきたとしても、それがあたって人間が怪我をすることはありえない」
「では、大地が壊れたらどうしよう」
「大地は、巨大な土のかたまりにすぎない 世界の果てまでふさがっていて、どこまでいっても土のかたまりだけなのだ 現に君は、歩いたり跳ねたり踏んだりして、一日中、大地のうえで行動しているではないか どうして大地が壊れるなんて心配する必要があるものか」
それを聞き、心配性の男はすっかり安心して喜んだ
諭した方の男も、晴れ晴れとした気持ちになって喜んだ
以上が故事成語としての「杞憂」の大意
転じて「心配する必要のないことをあれこれ心配すること 取り越し苦労」といった意味を生む
全くもって納得するに足らぬ論拠を、わざわざ出かけて行ってまで賢しらに吹聴する輩も、それにまんまと諭されてしまう輩も、どっちも不愉快でキライだ
この故事成語が放っている「分別臭い年寄りの処世訓」みたいな使われ方が、極めて不快なのだ
天が落ちてくるコトも、地が崩れるコトも、海が大地を飲み込むコトも、現実として起こりうる
今日(2011・03・11)、ワタシたちはそれを再認識した
「杞憂」という故事成語が、これほどに虚しく響く日はない
「不測の事態は常に、確かに起こりうる」という前提に立って、その上で、それでもこの世界をいかに生きていくべきか…
本来、この故事成語はそういう「覚悟」を促すためにこそ使われるべきモノではないか
悲観しようが楽観しようが、来るモノはいつか来るし、来ぬモノは来るまい
そうゆう人々のさまざまな思いを、ごった煮の様にいっしょくたに載せて、この世界は昨日から今日、今日から明日へと廻っている
廻って廻って廻って廻って、そうしてやがて、時がようやく満ちた時、不測の事態はやってくる
悲観した者も楽観した者も等しく平等に呑み込んで、不測の事態はこの世界を覆い尽くすのだ
運悪くソレに呑み込まれようが、運良く呑み込まれなかろうが、それはあくまで結果論だ
不幸にしてそんな事態に臨まざるを得ない時、自暴自棄にならず、かといって安易な楽観や達観もせず、ギリギリ最期の一瞬まで生存するための最善を尽くす
そのための覚悟と胆力、そして生存のために必要な「現実的」手段…
それを己の内に培っておくコト
尚且つ、そうやって如何に最善を尽くそうとも、飲み込まれる時は飲み込まれてしまうのだという肚も括っておくコト
このアンビバレンツな心情を、不安と恐怖と恐慌の中で「どちらも」維持してゆかねばならぬと、この故事を語った古人は語るべきではなかったか
実際、冒頭にひいた「晴れ晴れとした気持ちとなって喜んだ」の後、以下のように続く
この話を聞いた楚(そ)の学者・長廬子が笑って言った
「虹も雲も霧も風も雨も、四季の変化も、みな気の集まりが天のなかで作った現象である また山も川も海も、金属も石も、火や木も、みな物質の集まりが地上で作った現象である もし、これらがみな気の集まりであり、土くれの集まりであることがわかったならば、いつか崩壊しないはずがない たしかに天地は、広大な宇宙空間のなかのちっぽけな存在でしかないが、形のある物のなかでは最大の存在である この天地の本質がとらえがたいのも当然だし、天地の未来が予測しがたいのも当然のことだ かといって、天地が崩壊するのではないかと心配するのはあまりにもマクロ的すぎるし、反対に、天地が決して崩壊しないと断言するのも正しくない 天地が崩壊する性質をもつなら、いつかは必ず崩壊するだろう その崩壊の時期にぶつかったら、心配しないわけにはゆくまい」
わが師・列禦寇先生はこれらの議論を聞いて笑い、言われた
「天地は崩壊すると主張する者も間違っているし、天地が崩壊しないと断言する者も間違っている 崩壊するかしないかは、人類にはわかるはずがない 崩壊すると主張するのも一つの見識、崩壊しないと主張するのも一つの見識である だが、生きている者には死んだ者の世界はわからないし、死んだ者には生きた者の世界はわからない 未来の人間には過去のことはわからないし、過去の人間には未来のことはわからない 天地が崩壊するかしないか、わたしはそんなことで思い悩みはしない」
通常、ワタシたちが用いる「杞憂」というコトバは、冒頭部分のみを指す
が、本来の「杞憂」が説くのは最終段の部分だろう
「天災が起こる起こらぬという表層的な不安は、本来悩むに足らぬコトだ 人知を越えた暴凶な力に対して人知の及ぶ限り抗い、なおかつ武運拙く力及ばなかった時の、最期の身の処し方にもきちんと想いを巡らしておけば、それでヒトの為すべき事は充分に足りているのだ」
原典の「杞憂」という故事は、そうゆうコトを語っているのであって、決して楽観主義を是認したり助長しているモノではない
ワタシたちが乗っかっているこの「日本」という地面は、火山と地震の巣の上に築かれた「はなはだ危うい足場」だ
そういう、極めて不確かな足場を土台にして、古来ワタシたちは、柱を立てて屋根を葺き、田畑を耕作し、子を生し、明日を夢見て日々を紡いできた
風雨に家を流され、日照りや旱魃に明日の米櫃を思いわずらい、そして火山や地震に家財や家人を脅かされて、縄文以来の時を生きてきた
だからなのか、ワタシたちは明日の我が身をあまり深刻に考えないし、仮に災禍に見舞われても、それを永くは記憶しておかない(あるいは「記憶しておけない」)
考え、思いわずらい、心に刻んでおいたところで、来るモノはいつかやって来るからだ
今日の栄華を謳歌する者にも、破滅はやがてやって来る
今日の不遇に喘ぐ者にも、破滅はやがてやって来る
終末はいずれ必ず訪れるのだ
末法思想や無常観、享楽主義といったモノは、そういった素地の上に花開くべくして花開いた、極めて我が国的な心意気だ
良くも悪くも我が国的で、ワタシはそれを不快には思わない
明日をも知れぬ不確かな足場に、明日の我が身を託して生きざるを得ない
それでも明日を夢見ずには生きられない
そんな、痛切なほどに悲喜劇的な我が身なのだというコトを、この地面の上に乗っかって生きてきたワタシたちは、きっと心底から知っているのだ
今日を生き永らえた者に、せめて幸いなる明日を…
今日死なねばならなかった全ての生命に、せめて安らかな眠りを…
おざなりだと嗤われるかも知れぬが、ワタシは今、本心からそう祈っている
コメント
人は天の気を悪魔に変え、それが今まさに、人間に降り注ごうとしている。
戦争というものによって、殺すという目的のために集められた60人の物理学者。40年かかると思われていたことを、3年でやり遂げ、2発の爆弾を人の上に降らせた。
今福島で起こっていることを、全ての国民が注意深く見ている。しかし、その映像の中身を誰も理解出来ない。何が起こっているの?
二十年以上前、テレビの討論番組では、悪魔に対する決着は付いていた。誰でも理解出来る決着だった。しかし、当たり前の決着は無視され、企業の論理だけが大手を振って歩いてきた結果が、11日である。
唯一の被爆国だから、というセンチメンタルな論理を振り回すつもりはさらさらない。しかし、この先に落とし穴があると分かっていて、レミングの集団自殺のように、落ち込んでいくのは、人智を越えていると思わねばならないのだろうか。
杞憂。杞憂。杞憂。
どんな事象をも杞憂として受け入れる事心の広さがあれば人は生きる事に強くなれるんだろうが
杞憂を大きくしてるのはこれっぽっちの足跡も残してくれない行為だよ
メンドクサイ野郎ならそれでいい
だけど、足跡のひとつぐらいは残しておけよ
俺のほうがポッキリ折れるぞ