二度とない人生だからといって…

いつなんどき一体ナニが起こるかなど、誰も決して予測できないと痛感させられる日々が続いている

そんな中、幸いにして一瞬で全てが終わってしまえばまだ良いが、不幸にして生き延びてしまったりなどするコトも少なくない

明日の我が身に思いを馳せる時、茫漠たる無明の闇淵に佇んでいるコトに気付かされ、思わず身を屈めたりする

脳梗塞をわずらい、手指の操作が思うにまかせなくなったヒトの話題を、数日前のTVが報じていた

開いた手のひらの人差し指と親指を丸めて指先をくっつけ、「ゼニ」を意味するカタチにするコトすら困難だったヒトが、効果的なリハビリの結果、その機能を回復しつつある… というような内容だった

機能不全の中でも、脳の欠損からくるソレはかなり致命的だ

まして脳梗塞は予測困難な疾病だから、ソレを見ている最中のワタシに、突如として同様の事態が発生しても何らの不思議はない

そんな番組を、独りボンヤリ薄暗い部屋で眺めていたら、身の置き所のないような焦燥感に襲われた

その焦燥感の根っこにあるのは、言いようのないほどの「恐怖」であるコトは判っている

いつなんどき、ワタシもそうならないとは限らない

そうなってしまうコトからも逃れられない

そういう、自力では決して不可避な「運命」とでも言うようなモノに、この身をゆだねざるを得ないという恐怖だ

足掻いたところでどうにもならぬような、そんな妙なモノからは「とにかく遠くへ逃げてしまいたい」と、ココロが本能的に波立たされるから、ことさらに「焦燥感」が刺激されるのだ

鼻ったらしの頃から、この感覚を刺激されるのは甚だ不愉快でならないコトだった

己の無力を痛感させられるカンジ

己の無力を痛感させられて、にもかかわらず何もできないカンジ

己の無力を痛感させられて、にもかかわらず何もできず、やむなくソコから逃げたくなる衝動

どれもコレも不愉快の源だ

運命に抗うほどの覚悟はないが、運命に翻弄される以外に何らなす術もないなどというのは、ヒトとして不愉快きわまりない

んでもまぁ、薄暗い部屋で独りオカマが恐れたり憤ったり意気込んだり決意したりしたトコロで、運命とかソレっぽい何かがさほど大きく変化するワケでもない

そういうコトも少しずつ飲み込めるお年頃になったワタシは、屈めたその身を軽やかにひるがえし「んじゃあ、どうすっかなぁ…」と考える

で、いつ己が身の不自由に陥るかもしれぬから、「できるコトがあるうちは、できるコトにできるだけたくさん取り組んでみよう」などと、その辺のバカでも思いつくような浅はかなコトを考えた

手足の自由や思考の自由が利くうちに、いろんなコトに取り組んで、練磨して、達成感というモノを味わっておこうと考えたのだ

「弦は扱えるケド鍵盤はたたけないんだょなぁ」とか

「そういゃ、まともに完結させた絵がないなぁ」とか

「カートのA級ライセンス取ってなかったなぁ」とか

「モトクロッサーでデヴューすらしてねぇや」とか

「おぉっと、何よりもその前にコレを切除して新しく穴をつくらなくちゃ」とか…w

いろいろと、やり残したままだと思い残しそうなコトをムリヤリ挙げてみて、ソレらをガツガツ突き詰めてみようかと考えた

だがしかし、天才的なひらめきを宿したワタシのアタマには、次の瞬間まったく逆のこんなコトバがをよぎるのだった

「どんなに究めても達成しても、運命ってのに飲み込まれるとソレを失うんだょなぁ…」

出来てたコト・出来るようになったコト… その機能や能力が失われた時、大きな喪失感や欠落感にヒトは苛まれるだろう

少なくともワタシのような輩はきっとそうだろう

まして、その「出来るコト」が常人の及ばぬ域にまで練磨されていたなら、その喪失感はいかばかりであろう

そう考えると、最初から何もできないままでいるほうが、実は良いコトのような気がしてきた

「なんにもできるコトなかったし、できたコトもなかった」なら、運命だの不幸だの不測の事態だのというのに飲み込まれようが、失くすモノなど何もないのだ

失くすモノがなけりゃ(あるいは少なけりゃ)、喪失感だの欠落感だのってのに苛まれるのも少なくてすむんだゎな

とすりゃぁ… なぁんだ、今のままで良いんじゃん(えw?)

まぁ、そういう消極的な理由から「なんにもしない」コトを選択するってのもなんだケド、んでも「酔生夢死」の覚悟ができてるんなら、「なんにもしないでただ生きてる」ってのも案外正解なのかもしれない

ソレって孔子老子の対比にも似る相克だ

生き急いでも失くす道

失くしても哀しまない道

とっつきやすくて一般ウケしやすいのは前者なんだろう

んでも、そのとっつきやすさってのは、我々の精神風土の基礎に孔子サマが説かれた儒教の教えが刷り込まれてるからで、そう考えると、判断の根っこにひいきが入ってるのだ

もし日本に儒教や朱子学があまり入ってなくて、逆に道教老荘なんかがたくさん輸入されてたら、判断の仕方は変わってくるかもしれない(仏教も儒教も朱子学も、この国の律令体制とか支配体制の確立のために輸入されたツールだから、ソレはありえない仮定だけど…)

そんなワケで、ひいきめナシで理性的に考えた時、ワタシはどっちを選択するかなぁ

なんとなく後者な気がするケド、追い込まれるとやっぱりジタバタ足掻いて前者なのかなぁw

聖と俗・凡と慧のはざまで揺れる、老い先いまだ判然としないオカマの戯れ言でありました

<泉谷しげる:二度とない人生だから>

コメント

  1. ビバメヒ より:

     刹那的って言葉は、ネガティブに捉えられがちだけど、実は凄く合理的な言葉だよな。
     刹那刹那を楽しく生きれば良いんじゃないのだろうか。「城之崎にて」を論じるまでもなく、生物の生き死になんて、全ては偶然なんだな。何かによって生かされている、その死は突然訪れる、ってことを納得しながら生きるのは難しいが、逆に、そう考えれば何だって平気にもなる。
     もう数年すれば、日本国内、放射能汚染によって恐ろしいことになるんだから、今を楽しく生きるしかないと思うな。

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