明日が、今日とおなじ平穏無事な一日であるとは限らない
明日が、今日よりも幸せな一日であるとは限らない
明日は、今日よりも過酷峻烈な一日となるかもしれない
明日は、今日手に入れたささやかな幸せも、すべて失ってしまうかもしれない
だからヒトは、明日を怖れる
だからヒトは、明日に備える
だからヒトは、今日のささやかな平穏を「幸福」と読み換える
より大きな不幸を想定すれば、今の不幸は「それよりも幸福なコト」に置き換わる
そうやってヒトは、現在ある過酷な環境に耐えながら、明日を恐れ、明日に備え、明日を夢見、明日を紡いできた
おそらく数多の獣たちは、明日訪れるかもしれぬ自らの死を想定することなく生きている
その日その日を、場当たり的に生きている
「明日、突如として訪れるかも知れぬ不測の死」などという概念にとらわれぬまま、その日その時を生き永らえるための作業に最善を尽くして生きている
やがていつか、自らに死が訪れようとする時にはギリギリまでその「死」に抗い、足掻き、武運拙くチカラ及ばぬ時には、それを甘受して闇に呑み込まれ、ひっそりと消えてゆく
狩猟・漁労・採集という、自然からの恵みを享受するだけの生活を送っていた頃、きっとヒトも、獣の在りようとさほどの違いはなかったコトだろう
そういう段階のヒトは、明日の不安に苛まれるコトは今よりも少なかったことだろう
いつの頃からか、ヒトは「農耕」を発明した
農耕… それは明日を想定せざるを得ない生きざまだ
適切な時期に種籾をまき、適切な時期に適切な世話をし、適切な時期に刈り入れるというコトを「計画的に」行うコトで、はじめて作物は手に入る
明日するべきコト、明日起こるであろうコトを想定して初めて、農耕は可能となる
それゆえ農耕を発明した時から、ヒトは必然的に明日を怖れるようになっただろう
明日やって来るのは日照りか、旱魃か、冷害か、洪水か、害虫か、天変地異か
明日は、今日よりも苛烈かもしれない
明日は、今日手に入れたささやかな作物も失うかもしれない
だから明日は怖い
だから明日に備え、必要以上に備蓄する
そのためには、それなりの規模をもった集団が、機能的に動き回らねばならない
個体としてのヒトでは、農耕を恒常的に営めない
そうやって明日を怖れ、明日を想定し、計画的に機能的に集団化するコトによって、ヒトの集団は当座必要とする以上の恵みを貯蓄する方法を発明した
生産性の向上と備蓄の増大によって、ヒトは、より大規模な集団の腹を満足させるコトが可能となった
餓死の確率が減じ、結果として農耕に参加した集団は人口規模を拡大する可能性をより高めた
農耕に参加した小集団同士が、合一・連携しあって作業するうちに、いつしかひとつの中規模集団へと様相をあらためていったコトもあっただろう
農耕を発明し、あるいはそれに参加した小集団たちは、そうやって加速度的に集団としての規模を拡大させていったに違いない
しかしそれは同時に、「明日に対する不安」を拡散させたのと同義だ
その初期、ごく限られた連中だけのモノだったハズの「明日への不安」は、集団が規模を拡大してゆくのと歩調を合わせて拡散し、やがて大規模な「不安の共有」へと成長した
またそれと同時に、明日への備蓄が増大するというコトは、「余剰の富」が発生するコトと同義となった
余剰の富の発生とはつまり、富裕であるというコトだ
耕作適地を占有できるか否かは、そのまま貧富の差に直結し、結果として耕作に不向きな土地に住まう者たちは、富裕なる者たちとの間に生じた「生活力の差」を目の当たりにせねばならなかったコトだろう
その差を埋めるための工夫にも努力したコトだろう
不適地の荒土に突き立てる鋤鍬を発明するコトで、生産性を向上させる集団もあっただろう
より効率の良い育成法や品種の選別改良によって、生産性を向上させる集団もあっただろう
が、いかようにしても埋まらぬ歴然とした貧富の差に晒されたままの集団では、他者への妬みをいやがうえにも刺激されるようにもなったコトだろう
異常に増大した妬み・不遇感は、富める者への敵意へと容易に変質したコトだろう
農耕の発明は明日への不安を増大させ、貧富の格差を生み、集団としての戦闘行為の発生を助長した
農耕のために発明された農具は手から石器へ、石器から銅器へ、銅器から鉄器へと進化する中で、兵器へも転用され、それによって繰り広げられるようになった戦闘行為の規模は、野生の獣のそれとは比較にならぬほど凄惨なモノへと変質した
ヒトは農耕を発明した時から堕落したのだ
永久楽土であったはずのエデンを放逐された由縁は、この時より生じる
[追記]
本日午後9時よりNHK総合にて「ヒューマン なぜ人間になれたのか第3集 大地に種をまいたとき」第一回放映
ココに記した雑文を傍証してくれる警抜なる卓見が披露されるコトを期待している
コメント
いやあ、資本論を読むようだ。農業によって過剰に生産されたものが、ブルジョアを生み出すのだとマルクスは看破していた。世界が一つになれば、戦争など生まれないこともマルクスは述べていたが、資本が存在し、そこに人間が介在する以上は、有り得ないという結論に至ったな、若い頃は。
しかし、年を食ってくれば、マルクスの言うとおりだということ、その実現こそが人類の幸福ではなかろうかと思う、今日この頃。
人は堕落する。ちゅうか、楽な方を選ぶのは生命としての宿命ではないだろうか。出来るだけ動かず命を長らえる手段としての結果が、堕落。だとしたら、勤勉さは、最も非生物的な行為とも言える。しかも、勤勉さによって生み出されたもののほとんどが、一部のブルジョアに搾取されるとしたら。勤勉とは一体なんだろう。
生産的手段を持たない労働者は、堕落さえ許されない存在なのだろうか。
>ビバ☆メヒコンさま
マルクスも資本論も、読んだコトもなければ手に取ったコトもない、無学で無力な上に無職のオカマ、ただいま参上♪
なんてゆうかね、ワタシの心中には「原始共産制」みたいなモノを夢想する成分がきわめて濃厚です
ソレは多分に、サンカに惹かれちゃったり胡散臭い古史古伝に食指が動いちゃったりする心境と、根源を一にしてるような気もします
「現実逃避」と「理想郷幻想」とは、常に表裏一体のモノですもんね
現状に対する不遇感とか不適応感とか、そうゆう心情がヒトに理想郷を夢想させるのだとしたら、この雑文を作成する際にも、そんな気分によって相当量のバイアスがかかったであろうと疑ってかかるのも、あながち間違いではありませんw
まぁ、無職無給・徒手空拳のオカマが、蓄財やブルジョワジィを批判するというのは、あきらかにダメなヒトっぽいですよねw
コレがもし、日々激務に勤しむ高給取りとか、有閑階級あたりによって記述されていれば、また違った意味合いも出てきそうなのですケド、そうゆうヒトビトの真逆の立ち位置に仁王立ちする浅学菲才の中年オカマが、やっと覚えたむつかしい言葉をひけらかしたい一心で、一生懸命に綴ったのであろうと読者に見透かされてしまうというのは、語るまでも無く痛々しい図です
しかし、いっけん小難しいが、そのじつ、単なる「持たざる者のひがみ」でしかないという「自虐」をソコに感じ取っていただけたなら、それは詠者にとって歓喜雀躍すべき椿事と言って過言ではありませんw
クスリとでも嗤っていただけたなら、ソレは甚だ幸いなコトなのです
↓へ続きます
↑の続きです
ただね、この雑文で述べたかった「堕落」の部分に関してなのですケド、ホントに重点を置いて述べたかったのは蓄財とか私有財産の発生よりも、「明日を怖れる心」の方でした
野にある獣たちが明日に想いを馳せない様に、ワタシたちヒトも、明日を想い煩わずに生きるスタイルを選択していたならば、もう少しマシな生物の在りようでいられたのではないか・・・ ハナったらしだった頃からずっと、そんな風に漠然と思っていました
これまでそれを明文化しないまま、漠と思っていただけだったのを、今回はじめて文字に起こしてみたくなったのです
ドコの誰とも知れない何者かに、投げかけてみたくなったのです
明日を怖れる心・・・ それはもしかしたら、牙も爪も角も膂力も持たない、非力な生物に生まれてしまったが故の不安なのかもしれません
拠って経つべき確固とした何か… そうゆうモノを何ひとつ持っていなかったが故に、原初のヒトは、いつも自己を脅かす他者や獣の出現に怯えていたことでしょう
そんな不安に怯えながら、コソコソと木の実を拾い、魚貝を獲り、小動物を狩っていたことでしょう
でも、そうゆう非力な生物というのは、なにもヒトに限ったものではないですよね
ただ狩られるだけしかないような、そんな非力な生物も、この地球には無数に存在していて、そうゆう生物たちも狩猟者の出現に怯えながら、その日その日を生き、そして死んでいきます
まだ続きますw
たぶん最後ですw
それがイヤでイヤで仕方がなかったのか、あるいはたまたま見つけたのか、ヒトは農耕を発明しました
ある時期がくれば、ある一定量の食糧がキチンと手に入るというシステムを発見しました
コレはきっと、原初のヒトにとっては、牙や爪や角に匹敵しうる武器と手に入れたように思えたコトでしょう
外敵に怯える必要なく、定期的に一定量の食糧が手に入るシステム… それによってヒトは、食糧獲得時に煩わされてきた「外敵遭遇の不安」からは解放されました
しかしその代わりヒトは、集団で共有する「明日への不安」に囚われるようになってしまいました
「明日への不安」が、ヒトという生物が抱えている全ての禍根の根源です
しかも「明日への不安」というモノの姿は、目の前にはまだ実在しないモノへの不安だけに、無制限に膨張してしまいます
それも、個体としてのヒトが抱く程度の、ごく局所的な不安の域で留まっていればまだしも、農耕に参加した者につぎつぎと伝播し拡散し、遺伝的に次世代へ受け継がれてゆくものにしてしまいました
個体としての不安くらいでとどめておければ、もう少しマシな生物だったろうに…
そんな、もはやどうやろうと取り返しようもないモノへの悔恨とか、憤りとか、そんなコトを、ドコの誰とも知れない誰かに投げかけてみたかったのです
「農耕なんて、そんなに素晴しいもんかよっ!」ってねw
嗚呼、長かった^^;
筆者の言うとおり、生物としての根源的な不安(野生動物は持ってないでしょうが)が、まずは生命維持なわけです。
記憶も事物も全て人間は次世代につなげることで文化文明を構築し、繁栄してきたのです。情報の蓄積があればこその繁栄。
繁栄は、社会的な反映と個人的な反映に分けられ、私も含めて、必死にそれにしがみついているわけです。明日から、蝋燭一本の生活はできないし、ファンヒーターも必需。
ファンヒーターがない生活なんて考えられないから、明日が不安になります。すなわち、持つことによって生まれる明日への不安。
目の前に実在しないものに対する不安、ってよくわからないなぁ。イメージに対する不安ってこと?それが禍根を産み、増大させてるってことかな。
たしかに、そこまでいくと、個人的なレベルを超えてるけど、社会が刹那的って言うこともあり得ないので、仕方がないのかな。
>ビバ☆メヒコ
現状… というか、「現実」というモノに対する肯定感の違いなのかなぁ
ワタシは、現状を善しとは思えていないのです
それこそ昔っからね^^;
ヒトの在りようを肯定できないから、ソレを堕落と捉えるし、その原罪はドコから生じたのかを考えてしまうし、「もし、そうでなかったら…」と夢想してしまうのでしょう
そうゆう者が、勢い余った挙句、ヒトがましくコドモなど造ったりしないで本当に良かったと胸を撫で下ろします
現状に対する肯定感… 学生時代、ビバ☆メヒコ氏と共に過ごした頃から常に痛感していた「決定的な差異」ですね
立ってる位置が違うと、同じものを見ても違ったように感じてしまうという好例です
だからといって、それを哀しいとは思いません
あれから数十年の月日が流れても、同じモノを見て、それについてコトバを交し合えるというコトを、奇跡のように感じています
良き朋友を持てたコトを、誇りに思います
「現実に対する肯定感」は、その人自身が持つストイックさに委ねられてるんじゃないかなぁ。
ゴミ箱にポイッとゴミを投げて、入らなくても全然平気な人と、少し気にはなってもほっておく人、少し気になって再度投げる人と、気になる人、気になってしかたがなく方法を研究する人、そして、それをアニミズム的な意味さえ見いだそうとする人もいる。
同じ事物に対する見方って、そういうもんなんでしょうね。そういう人が集まっての社会なんだな。
私は、自己肯定感が強いの(ルーズと同義)で、自分の行動は棚に上げ、他者を批判することが多いんです。批判は、事物を見るポジションの違いから生じると頭では理解出来ても、内なる心では、まだ駄目ですな。むかついてしかたがない。修行が足らんのです。
私に欠けるのはストイックな魂ですが、もし私が、ストイックな精神の持ち主だったら、今頃生きてはいないと思う。他者を批判して見えてきた自分の姿が許せなくなると思うから。自分の失敗が許せないでしょうから。
ルーズだから、のほほんと生きてることは自覚出来てるんだけど、それを堕落とは捉えないんだよね。それは自己否定になるから。
↓続き
君自身が、学生時代に残した名言、
「俺って、すごい!」
の精神に立ち返って、周囲を俯瞰した視点で見、睥睨して欲しいな。
ご無沙汰・・・ずいぶん長い議論を交わしていたようで・・・
学生時代は、小生を含めて個性派揃いだったからねぇ~。
価値観のぶつかり合いもあったのかも知れないけど、だからこそ長続きしてるんじゃないかなぁ~・・・。
と思う今日このごろ・・・・
あっ、そうそう。
ビバ☆メヒコ殿は本当に議論好きだったもんなぁ~~~。
>千葉っぷサマ
アイヤー、まことにおひさしぶりざんす♪
ホント、一筋縄ではいかない「メンド臭い連中」の集まりでしたょねぇw
元来が自閉気味でヒトとの交わりを避けていた精神的未熟児のワタシを、そうゆうヒトビトの中へいざなってくれた千葉っぷサマには、今でも足を向けて眠るコトが憚られますw
夜通しで鍋つつきながら、大酒喰らってバカ騒ぎしたり論じ合ったり…
そうゆう貴重な時間を、あの若い時期に持てたコト、ソレを体験させてくれた皆にとても感謝しています
随分と永い時間が過ぎてしまって、往時は遠くなってしまいましたケド、みなみな、それぞれの途路において息災でありますように…
http://youtu.be/Mnshx5720CE
<吉田拓郎:旧友再会 フォーエバー・ヤング>
>千葉っぷ
あの頃を振り返ると、汗顔の至りですなぁ。しっかし、面白かったですな。だって、写真残ってないからね。面白すぎて、写真撮ること忘れてしまったんだなぁ。
充実してたのかどうかはわからんけど、血となり肉となった時期であったのは確かですね。
個々に思い出として持っている記憶を、重ね合わせるような作業を、同窓会という形でしても良いね。
>ロビンちゃん
鍋を突き合ったことより、賞味期限切れの餃子をビールで消毒しつつ焼いて食べたという、「食のマッチポンプ」を先に言わないと!